朝ドラ『ブラッサム』のモデル・宇野千代の生涯と実話/家族と家系図

宇野千代 ドラマ

2026年9月28日にスタートする、NHK連続テレビ小説第115作目の作品『ブラッサム』。

石橋静河演じるヒロインのモデルが昭和の日本を代表する女流作家の一人・宇野千代です。

本記事では、ドラマをもっと深く楽しむため、宇野千代の生涯、家族と家系図から、数々の恋愛遍歴とゆかりの地、おすすめの著作まで、わかりやすく紹介したいと思います。

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宇野千代をモデルにしたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『ブラッサム』

『風、薫る』次に放送される、NHK連続テレビ小説第115作目の作品が『ブラッサム』です。ヒロインの葉野珠(はのたま)役には石橋静河が抜擢され、また幼少期を子役の村上蘭、1980年代以降の晩年を加賀まりこが演じます。

ヒロインのモデルとなっているのが、明治から平成をたくましく生きた女流作家であり、また編集者や着物デザイナーなど多彩な顔も持っていた宇野千代

原作はなく、あくまでもフィクションとして製作するとされていますが、虚実織り交ぜる近年の朝ドラにはよくある逃げパターンでしょう。脚本は、ドラマ『マルモのおきて』や朝ドラ『ブギウギ』の共同脚本で知られるまだこれからの若手・櫻井剛、主題歌をYOASOBIが担当します。

かなり大胆な創作(=嘘)が盛り込まれることは明らかですが、モデルである宇野千代の生涯と実話を知れば、ドラマをもっと深いところまで楽しめるのではないでしょうか?



宇野千代の生涯と実話・家族と家系図

宇野千代は、1897(明治30)年11月28日、山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市川西)に、造り酒屋の次男・宇野俊次と、母・トモの間に長女として生まれました。1歳半のとき、実母は肺結核で死去。翌年、父は17歳の佐伯リュウを後妻として迎え、その後、薫、鴻(ひろし)、勝子、光雄、文雄という四男一女をもうけました。愛情豊かなリュウは、実子と分け隔てなく千代と接し、また千代も5人の異母きょうだいの面倒をよくみていたようです。

岩国尋常小学校を優秀な成績で卒業し、岩国高等女学校(現在の岩国高等学校)に入学。翌1911(明治44)年、14歳で、従兄にあたる藤村亮一と結婚します。しかし、若すぎた2人の結婚は、10日ほどで実家に戻って終わりました。本家からのお金頼みで無職の道楽者だった父の死を経て、1914(大正3)年に女学校を卒業。16歳で、川下尋常高等小学校(現在の岩国市立川下小学校)の代用教員となりました。

女学校時代から詩作や散文を好んで綴っていましたが、この頃には、仲間たちと同人誌「海鳥」も発行。しかし、新任教師・佐伯正夫と恋に落ち、大胆な行動が問題視された結果、1915(大正4)年に免職となりました。

「佐伯正夫」は、宇野の著書『生きて行く私』に明記された名前ですが、他の尾崎一雄や東郷青児ら有名人とは違い、また婚姻に至らなかった一般男性であることから、プライバシーに配慮した仮名の可能性があります。

19歳の千代は、失意の中、女学校時代の恩師を頼って日韓併合下にあった朝鮮の京城(現在のソウル)へと出奔します。家政婦などして生計を立てつつ、恋文を送り続けていた佐伯からついに絶縁状が届き、半年もたたずに帰国。山奥の小学校に左遷されていた佐伯を訪ねるも拒絶され、関係は終わりました。

しかし、千代は失恋を引きずるどころか、ほどなく、前夫・藤村亮一の弟で、京都の第三高等学校生だった藤村忠との恋落ちます京都の下宿先での同棲を経て、1917(大正6)年、忠が東京帝国大学(現在の東京大学)に入学したのに同行し、上京しました。

東京では、様々な職を転々とし、生活費を稼いでいましたが、給仕として短い間働いていた本郷の洋食店が「燕楽軒(えんらくけん)」。「中央公論社」が近くにあり、やり手の編集長だった滝田樗陰と知り合い、また菊池寛や芥川龍之介、今東光ら若手の作家たちと知遇を得ました。このころから短編小説も執筆するようになり、大衆誌の懸賞小説に応募して賞金の小銭を得たこともあります。

1919(大正8)年8月、21歳の時、忠と結婚。忠が北海道拓殖銀行札幌支店に就職したため、札幌に転居します。生活は楽になり、1921(大正10)年、新聞の懸賞小説に『脂粉の顔』を応募。それが一等となり、以後、作家の道を進むことになりました。

作家として原稿料を得るようになった千代は、「中央公論」掲載で得た原稿料を手に一時凱旋帰郷。北海道に戻る途中に再度立ち寄った東京で、尾崎士郎を紹介されます。尾崎に一目ぼれした千代はそのまま尾崎が逗留していた「菊富士ホテル」に転がりこみ、札幌に戻ることはありませんでした。

1923(大正12)年、二人は東京の荏原郡馬込町に居を構えますが、ほどなく不倫がスキャンダル化します。翌年、忠と協議離婚し、1926(大正15)年には尾崎と3度目の結婚をしました。馬込には、川端康成、萩原朔太郎、三好達治らそうそうたる面々が集い、文士村と化します。千代は断髪し、最先端のモダンガールを振る舞い、また筆名も藤村千代から宇野千代に改めました。

1927(昭和2)年、30歳の時、二人は川端康成に誘われ、伊豆湯ヶ島温泉に逗留。そこで知り合った梶井基次郎が千代に惚れ、二人の交流に嫉妬した尾崎との関係が悪化します。別居期間を経て、1930(昭和5)年、ついに尾崎との離婚が成立しました。



尾崎と離婚した同じ年、執筆のための取材がきっかけとなり知り合ったのが、フランス帰りの洋画家・東郷青児でした。二人は、出会ったその日から同棲をはじめます。

1931(昭和6)年には、荏原郡世田谷町に新築した白い洋館に暮らし、千代自身も東郷の西欧的な影響を受けて洋装することが多くなります。このころ、東郷が装幀・挿絵を手掛けた短編小説集『大人の絵本』も刊行されました。

千代は終生、麻雀を趣味としましたが、1934(昭和9)年、二人して賭け麻雀で検挙されるという事件が起こります(文士賭博事件)。売れ子作家として多忙になりつつあった千代との間で、少しずつ距離が生まれる中、東郷がかつて情死未遂事件を起こした相手と復縁したことにより、関係は破局しました。

しかし、東郷の情死未遂事件を題材に描いた小説『色ざんげ』は、非常に高い評価を得ます。皮肉なことに、作家としての名声を確立した作品となりました。

西欧文化に感化された「昭和モダン」さなかの1936(昭和11)年、千代は『スタイル社」を設立し、日本初のファッション誌『スタイル』を創刊します。記者として取材に来たことがきっかけとなり、やがて編集に関わるようになる北原武夫と親密になり、1939(昭和14)年、4度目の結婚をしました。この時、千代42歳、北原32歳と10歳の年齢差がありました。

戦時中は、北原のジャワ出征、戦時統制による雑誌名変更から廃刊、疎開(熱海→栃木)と、激動の波にのまれますが、戦後すぐの1946(昭和21)年、北原を社長、千代を副社長として『スタイル』復刊にこぎつけます。雑誌は爆発的に売れ、着物専門の『きもの読本』も創刊。その後は、着物のデザイン、「宇野千代きもの研究所」設立、銀座にアクセサリーショップ「スタイルの店」開店など、表向き10年ほどは作家の顔よりそれ以外の活動が目立っていました。1951(昭和26)年には、仲良しだった宮田文子とともに、2カ月間のヨーロッパ旅行を敢行しています。

ところが、ただでさえ競合誌も増えはじめていた1952(昭和27)年、「スタイル社」の脱税が判明し、巨額の追徴課税と手形返済によって経営が窮地に陥りました。借金返済のため、千代はひたすら執筆を続けます。一方、シアトルの国際見本市で着物のファッションショーを開催するため1か月半の渡米をしたり、10年の歳月をかけ、1957(昭和32)年、久しぶりに刊行した小説『おはん』が野間文芸賞と女流文学者賞のW受賞を果たすなど、苦しい私生活とは別に創作活動はまさに脂の乗った時期にありました。しかし、「スタイル社」は1959(昭和34)年、ついに多額の負債を抱え倒産。不動産など千代の資産もすべて人手に渡りました。

1960年代以降は、小説と着物デザインの仕事に専念します。借金返済ばかりか、転倒し骨折入院するなど苦しい時期でもあった一方、仙台から藤江淳子を助手に迎えています。藤江とは千代が亡くなるまで実の親子のような関係となりました。1964(昭和39)年、尾崎士郎が病死。そして、会社の負債を完済したことで、北原とも離婚しました。

1967(昭和42)年には、着物デザインなどの事業を行う「株式会社宇野千代」を設立します。執筆にも精力的に取り組み、女流文学賞や日本芸術院賞、菊池寛賞など数々の賞を受賞。1980年代以降は数多くのエッセイも発表し、幅広い女性たちの共感を得ました。中でも、1983(昭和58)年に刊行された自伝的小説『生きて行く私』は一大ベストセラーとなり、1984年と1991年の二度、テレビドラマ化されています。

1990(平成2)年には、岩国市名誉市民、また女流作家として4人目となる文化功労者に選ばれました。最晩年まで執筆を続けていましたが、1996(平成8)年6月10日、急性肺炎のため、満98歳で死去。墓所は故郷の岩国市にある宇野家菩提寺の教蓮寺にあります。



宇野千代の恋愛・結婚遍歴

生涯に渡り、数多くの男性と恋愛を重ねた宇野千代。残された相手男性の写真を見ると、どの男性も実に端正な容姿をしており、千代の好みがはっきりわかります。

主だった男性遍歴を一覧にまとめると以下の通りです。

関係相手交際/結婚期間千代の年齢備考
結婚①藤村亮一1911(明44)の僅か10日間14歳従兄、1918年死去
交際佐伯正夫1914(大3)ー1915(大4)18-19歳同僚教師、後年不詳
結婚②藤村忠1919(大8)ー1924(大13)21-27歳従兄、1916年から同棲、1977年死去
結婚③尾崎士郎1926(大15)ー1930(昭5)29-33歳作家、1922年から交際、1964年死去
交際東郷青児1930(昭5)ー1934年(昭9)33-37歳洋画家、1978年死去
結婚④北原武夫1939(昭14)ー1964(昭39)42-67歳作家、1973年死去

また、上の6人以外にも、千代の著作の中には、故郷での初恋の相手、また代用教員時代に自身を蹂躙した村長の息子のこと、東郷と交際していた時に一夜を共にした大阪の男など、別の男性との関係も詳しく綴られています。いずれにせよ、当時としてはかなり進んだ、奔放な男性遍歴の持ち主でした。



住まいの遍歴・ゆかりの地

宇野千代は、18歳の時、故郷から朝鮮の京城(現在のソウル)に渡ってい以来、京都→東京→札幌→東京と引越し、住居を頻繁に変えた放浪とも言える生涯を送りました。

札幌で初めての家を購入してから、終の棲家となる南青山のマンションにたどり着くまで、あわせて13軒の家を手に入れたようです。

尾崎とひととき暮らした本郷の「菊富士ホテル」、馬込のぼろ家はもちろん、東郷青児と暮らした世田谷の淡島にあった洋館、銀座・歌舞伎座近くの木挽町(こびきちょう)に建てた数寄屋造りの日本家屋など、すべて現存していません。

そんな中、岩国の生家だけは、千代が私財を閉じて修復したこともあって現存しています。

もともと庄屋だった家屋を、父の俊次が買い取ったのが、千代の生まれ育った生家です。錦帯橋の西側エリアに拡がる川西にあります。

長らく誰も住んでおらず、傷みが激しかった生家を、千代が私財を投じて修復し、1974(昭和49)年に完了しました。千代の希望により、間取りや部屋の様子は、ほぼ昔の通りに復元されているようです。

現在は記念館として一般公開されています。

名称宇野千代生家
住所山口県岩国市川西2-9-35
HPhttps://www.unochiyoseika.jp/

かつて九十九谷とも呼ばれ、谷の多かった馬込は家賃が安かったため、大正から昭和にかけて多くの作家や芸術家が移り住み、「馬込文士村」と呼ばれました。

千代と尾崎も、大根畑が広がる一帯に粗末な農家を購入。二人がここに暮らしたのは、1923(大正12)年から1930(昭和5)年までのおよそ8年間でした。同時期に暮らしていた文士には、川端康成、萩原朔太郎、吉屋信子らもおり、馬込文士村が最も賑やかだった時代です。

のどかな畑だらけだった当時の面影は完全に消失していますが、JR大森駅西口にある「八景天祖神社」脇の階段の壁面には、当時の住人たちのレリーフがあり、もちろん千代と尾崎の姿も発見できます。また尾崎が晩年を過ごした住居を復元した「尾﨑士郎記念館」もあります。

名称馬込文士村レリーフ
住所東京都大田区山王2-4
HPhttps://www.magome-bunshimura.jp/

馬込村に暮らしていたころ、川端康成に誘われ、千代と尾崎がしばしば訪れたのが伊豆の湯ヶ島温泉でした。現在も営業を続けている「湯本館」は、川端康成が長く逗留し『伊豆の踊子』を執筆した宿として有名ですが、千代と尾崎の定宿でもありました。

上述した通り、ここに現れた梶井基次郎を挟み、二人の関係が破綻しました。

名称湯本館
住所静岡県伊豆市湯ケ島1656-1
HPhttps://www.yumotokan-izu.jp/

生涯、13軒に及ぶ住居を手にいれては、手放してきた千代ですが、その最後、終の棲家となったのが、南青山のマンションでした。借金で熱海の別荘や銀座・木挽町の邸宅を失い、仕方なく1956(昭和31)年に建てた小さな家を、1978(昭和53)年に自宅マンションに建て替え。「宇野ハイツ」の名で、3階を住居として亡くなるまで住み続けました。

千代の死後、「DeLCCS南青山」の名で、女性専用シェアハウスなどに活用されていましたが、2011年に大阪の会社に売却。2023年、再開発のため解体され、現在は「表参道 Grid Tower」の一部となっています。

写真はGoogleマップのストリートビューに残っている解体前の姿です。

桜の花を愛し、また桜の花びらを散りばめた多くの着物をデザインした宇野千代。幼い頃、故郷の錦帯橋に咲く桜の花を目に焼き付けたと言い、桜は宇野千代のトレードマークとなりました。

1968(昭和43)年には、友人の小林秀雄から、岐阜の根尾谷にある樹齢1500年の「淡墨桜」の話を聞き、自ら出向いて運命的な出会いを果たします。枯死寸前だった老木の保護、蘇生に尽力したばかりか、その姿に自らを重ね合わせ、小説『薄墨の桜』執筆に至りました。

「根尾谷淡墨桜」は日本三大桜のうちの一つであり、国の天然記念物に指定されています。

名称根尾谷淡墨桜
住所岐阜県本巣市根尾板所字上段995
HPhttps://www.city.motosu.lg.jp/category/2-18-0-0-0-0-0-0-0-0.html

宇野千代の墓所は、故郷の岩国市にある「浄土真宗本願寺派教蓮寺」にあります。宇野家の菩提寺であり、千代の墓はもちろん、両親の墓もあります。

名称教蓮寺
住所山口県岩国市川西2-1-10
HPhttps://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_15512.html



宇野千代のおすすめ著作4選

パリ帰りの若い画家の情死事件をテーマに描いた長編小説です。東郷青児自身が体験した心中未遂事件がそのまま題材となっており、男の独白の形をとった細やかな心理描写が特徴です。

東郷との数年間の恋愛関係がそのまま結実した作品ともいえ、宇野千代初期の代表作として知られています。

古物屋を営む幸吉が、愛人の芸者「おかよ」と、妻「おはん」との間で揺れ動く物語であり、野間文芸賞と女流文学賞をW受賞しました。ドナルド・キーンの手によって英米でも翻訳本が刊行されたほか、これまで複数回に渡るテレビドラマ化、映画化、舞台化がなされています。

戦後、復刊させた雑誌『スタイル』の爆発的な売り上げをもとに、銀座の木挽町に新築した日本家屋で書き始めたとされていますが、執筆当時、夫の北原武夫は若い女性と不倫関係にあり、すでに別居状態にありました。こうした実体験の三角関係が『おはん』の物語にそのまま映し出されています。

1982年2月から10月にかけて毎日新聞に連載され、翌年単行本が刊行されるや、100万部を超える大ベストセラーとなったのが宇野千代の自伝的小説『生きて行く私』です。

文字通り、千代自身の波乱の生涯を綴ったものであり、これまで二度、テレビドラマ化されました。一度目は1984年に十朱幸代主演で、二度目の1991年版では、宮崎美子が千代役を演じました。朝ドラ『ブラッサム』は、原作のないフィクションとされており、役名もすべて異なりますが、実際は本作の三度目のドラマ化に近い可能性があります。

1995(平成7)年12月12日に刊行され、宇野千代最後の著作となったのが、『私何だか死なないような気がするんですよ』です。

97歳を迎え、自身の心と体について語った随筆集であり、中に書かれている印象的な言葉が、そのままタイトルとなっています。



朝ドラ『ブラッサム』で宇野千代はどう描かれるのか?

ご紹介したとおり、数多くの男性遍歴とともに、波乱の生涯を送った宇野千代をモデルに、ドラマ『ブラッサム』はどこまで事実に即して描かれるのでしょうか?

実在の女性二人をモデルとした『風、薫る』では、事実とは程遠い創作があまりに多く、視聴者を白けさせているのも、低視聴率の理由の一つだと言われています。

これは、モデルとなっている人物に対する敬意の問題ではないでしょうか?

また、これまで、朝ドラを手掛ける脚本家はそれなりの実績を残してきた中堅が選ばれていましたが、最近は、代表作らしい作品も見当たらないほぼ新人に近い脚本家も多く、筆力不足も否めません。

ここ数年、底なしに低迷する朝ドラですが、『ブラッサム』が歯止めになるかどうか、注視していきましょう。

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