2025年3月31日に放送が始まったNHK連続テレビ小説(朝ドラ)第112作目の作品『あんぱん』。
ヒロイン・朝田のぶとその夫となる柳井嵩(やないたかし)のモデルとなっているのが、『アンパンマン』の原作者として知られるやなせたかしとその妻の暢(のぶ)です。とはいえ、中園ミホによる脚本は、フィクションによるオリジナルストーリーをうたっており、実話とは違う設定も多々みられます。
そこで本記事では、モデルとなっている二人の実際の生涯について、さらにドラマの嘘と実話についてご紹介したいと思います。
やなせたかしとその妻・暢をモデルに描く朝ドラ『あんぱん』
2025年5月現在、歴代最低視聴率を記録した前作『おむすび』と比しても、朝ドラ『あんぱん』はおおむね好評を得ているといえるでしょう。
しかし、実在の人物をモデルにしているとは言っても、上述のとおり、フィクションによるオリジナルストーリーとされ、事実ではない多くの創作が盛り込まれており、その点に関しては賛否あるようです。
国民的に広く知られている漫画家・やなせたかしですから、あまりにも作り事や嘘が多すぎると反発が起きるのはある意味、致し方ないのかもしれません。
それでは、実際のやなせたかしとその妻・暢はどんな生涯を送ったのでしょうか?
※暢の名は、Wikipediaは「小松暢」のもと記述されていますが、苗字は「池田」→「小松」→「柳瀬」と変わっており、最も長く亡くなるまで使用された「柳瀬」を使用するのが適切かと考えます。
ドラマのロケ地について紹介した記事もあります。↓
やなせたかしの生涯をわかりやすく紹介
①生い立ちと幼少期、家族関係
やなせたかし(本名:柳瀬嵩)は、1919年2月6日、高知県香美郡在所村(現在の香美市香北町)出身の父・清(きよし)、母・登喜子(ときこ)の長男として東京に生まれました。
父は上海に留学した後、日本郵船や講談社、朝日新聞社を渡り歩いたエリートでしたが、たかし5歳の時、単身赴任先だった中国の厦門において32歳の若さで急死します。
故郷の在所村で暮らしていた母、たかしは、母方祖母を連れて高知市に移り、一方、2歳下の弟・千尋(ちひろ)は高知県長岡郡後免町(現在の南国市後免町)で「柳瀬医院」を開業していた子のない伯父・寛(ひろし)夫妻の養子として引き取られました。
しかし、たかしが小学2年の時、美人で社交的だった母が再婚することになり、たかしも伯父の家に預けられることになります。
②少年期・青年期
優しい伯父夫婦のもとで、大切に育てられた兄弟ですが、奥手で繊細だったたかしは、ハンサムで成績優秀だった千尋にコンプレックスを抱き、思春期には線路に横たわって自殺のまねごとをしたり、家出をしたりしたこともあったようです。
高知県立高知城東中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校)では、数学が全く不得手だったのに対し、美術の成績だけは良く、新聞に投稿した漫画が一等になり懸賞金をもらったこともありました。
伯父夫婦は医院の跡継ぎを望んでいましたが、たかしは上京し、東京高等工芸学校工芸図案科(現在の千葉大学工学部)に進学。卒業後は、医師である伯父の仕事のことも考えて東京田辺製薬に就職を決めたにも関わらず、その間際に伯父が他界してしまい、大きな悲しみに打ちひしがれました。
③就職と戦争前後
田辺製薬では宣伝部に配属され、ポスターなどの広告宣伝やイラストなどを担当していましたが、一年後には召集令状を受け取り、九州小倉に配属されます。中国・福州の部隊に2年ほど従軍しましたが、激しい戦闘に巻き込まれることはなく、紙芝居を作って現地の人と交流などしていたようです。
終戦を迎え、たかしはなんとか高知に戻りますが、そこで、海軍に配属されていた22歳の弟が撃沈されて戦死したこと知らされ、大きなショックを受けたと言います。
1946年、27歳の時に高知新聞社に入社。記者を経て雑誌「月刊高知」の編集室に配属されます。文章や絵の面での才能を発揮しつつ、ここで出会ったのが後に妻となる小松暢でした。
④上京と結婚、漫画家へ
1947年、28歳の時、本格的に絵やデザインの仕事を目指すため、新聞社を辞めて上京し、三越百貨店の宣伝部に入社します。その半年前には暢が先に上京し、代議士の秘書として働き始めており、同棲をスタートさせます。2人は1949年に結婚しました。ちなみに、現在も三越の包装紙に使用されている「Mitsukoshi」の書体ロゴは、やなせたかしによるものです。
デザインの仕事が中心ではありましたが、漫画の面でも小島功の「独立漫画派」に所属し、少しずつ仕事を得ていきます。妻の後押しもあって、1953年には三越を辞め、フリーの漫画家となりました。
漫画家として、「ニッポンビール」(現在のサッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」など多数の連載を抱えますが、大きなヒット作や代表作にはなかなか恵まれることはありませんでした。
そのため、この頃は、宮城まり子のリサイタルの構成衣装デザイン、インタビューアー、映画ライター、ミュージカルの舞台美術、作詞など漫画以外の仕事も多くこなしていました。作詞を担当した有名な曲に「手のひらを太陽に」があります。
⑤『アンパンマン』が国民的人気へ、妻の死
1973年には、雑誌「誌とメルヘン」を創刊して編集長も務めたほか、同年、『アンパンマン』シリーズの原型となる絵本『あんぱんまん』を刊行します。
最初は不評でしたが、描き続けるうち、次第に子どもたちの心をつかんでいきます。1976年にはミュージカル『怪傑アンパンマン』上演、1988年の日本テレビ系列でアニメ『それいけ!アンパンマン』の放映へとつながっていくのでした。
ところが、『アンパンマン』が国民的な人気漫画としてブームとなり、劇場版映画第一作が公開された1989年、妻・暢の乳がんが判明します。
1991年に瑞宝章を受章し、式や園遊会には小康状態だった暢を伴って参列していますが、1993年11月22日、暢は永眠しました。たかしは、体重が10キロ以上落ちるほどの悲しみに打ちひしがれたようです。
そんな中、1996年、77歳の時には、故郷の香北町に「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」がオープンしました。
⑥晩年と死、墓所
67歳の時に罹患した腎臓結石に始まり、晩年は様々な病から複数回の手術・入院を繰り返していましたが、そんな中でも、2003年には84歳で歌手デビュー、2009年には『アンパンマン』がギネス世界記録認定、また東日本大震災の際には支援活動に積極的に取り組むなど、生涯現役を貫きます。
2013年10月13日、94歳で死去。
墓所は、高知県香美市香北町にあった実家の跡地に整備した「やなせたかし朴ノ木公園」にもうけられ、すぐ近くにある柳瀬家の菩提寺・高照寺に位牌が安置されています。
やなせたかしの妻・柳瀬暢の生涯
やなせたかしの妻となる暢は、1918年に生まれ、やなせより1歳上です。父・池田鴻志(いけだこうし)は、高知県安芸市出身でしたが、当時の日本で最大手の総合商社「鈴木商店」で働いていたため、暢は大阪に生まれ育ちました。
父は、暢が6歳の頃に亡くなり、暢はそのまま大阪にあった旧制阿部野高等女学校(現在の大阪府立阿倍野高等学校)を卒業。「韋駄天のおのぶ」「ハチキンおのぶ」との異名を持つ足の速い、男勝りな体育会系少女でした。
女学校卒業後、東京で出会った高知出身、日本郵船勤務の小松総一郎と結婚します。しかし、夫は戦争に召集され、終戦後すぐ病死。未亡人となった暢は、高知新聞社に入社し、『月刊高知』の記者となったところに配属されてきたのがやなせたかしでした。
2人はお互いに惹かれあい、交際をスタートさせます。ところが、行動的な暢は、社会党代議士の秘書の仕事を得ると新聞社を退社し、さっさと一人上京してしまいます。たかしも暢を追いかけるように上京したのは上述の通りです。1949年、30歳の時、2人は結婚しました。
暢は、持ち前の前向きで男勝りな性格を活かし、フリーの漫画家として下積み生活を送る夫の身の回りの世話はもちろん、仕事の雑務や経理などでも献身的に支え続けました。
1993年11月22日、癌治療による副作用が直接の原因となり死去。享年75歳。位牌はやなせたかしと同じ高照寺に安置されています。ちなみに二人の間に子はいません。
朝ドラ『あんぱん』ドラマが描く嘘と実話
ドラマに盛り込まれた創作の部分に関し、とりわけ批判にさらされているのは、2人が出会った経緯です。既述の通り、2人は勤務先の高知新聞社で出会いましたが、ドラマでは幼馴染として描かれています。
幼少期から物語をスタートさせるため、そうせざるを得なかったのでしょうが、あまりにも事実に反する嘘に、しらけてしまったファンも多かったのかもしれません。
また、暢は3姉妹として描かれていますが、そういった事実は確認できず、これもおそらく創作であることは間違いないでしょう。よって蘭子と豪の悲恋も創作です。
ただ以下のディテールはどうやら実話のようです。
●少年時代、線路に横たわって自殺のまねごとをした。
●数学が苦手だった。
●東京の学生時代、銀座などぶらぶらし、よく遊んでいた。
●暢はとにかく俊足だった。
2025年5月現在、ドラマはまだ中盤にも差し掛かっていない段階ですが、今後も多くの創作が盛り込まれることでしょう。また露骨な相違点が出てきましたら、記事を更新したいと思います。