2026年3月30日より放送がスタートする、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)第114作目の作品『風、薫る』。
実在の人物である大関和と鈴木雅をモデルにしたWヒロインを、見上愛と上坂樹里が演じます。
ドラマは実話に着想を得たフィクションをうたってはいますが、モデルとなっている二人の生涯と実話について理解しておくと、もっと深く物語を楽しむことができるのではないでしょうか?
NHK連続テレビ小説(朝ドラ)第114作『風、薫る』とは?
幕末に生まれ、明治時代を中心に、日本の近代看護の礎を切り開いた二人の看護婦、大関和(おおぜきちか)と鈴木雅(すずきまさ)をモチーフにしたWヒロインの波乱の人生を描く朝ドラ第114作が『風、薫る』です。
原作はなく、田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』を原案としたオリジナル脚本を、大河ドラマ『八重の桜』やプレミアムドラマ『ファーストラヴ』を手掛けた吉澤智子が担当します。いわば、一種の「バディもの」だと言えるでしょう。
見上愛演じる一ノ瀬りん(いちのせりん)のモデルが大関和、上坂樹里演じる大家直美(おおやなおみ)のモデルが鈴木雅ですが、物語には大胆な再構成が施され、あくまでもフィクションとして描かれるようです。
現段階では、ドラマがどのような展開をみせるかは不明ですが、モデルとなった二人の実話を頭に入れておくと、ドラマをもっと深く楽しめることは間違いありません。
大関和(一ノ瀬りんのモデル)の生涯・家系図と実話
①生い立ちと家族・家系図

大関和(おおぜきちか)は、1858年5月23日(安政5年4月11日)、現在の栃木県大田原市黒羽田町、当時の下野国、黒羽藩の重臣だった大関弾右衛門増虎と妻・テツ(哲)の間に、二男三女の次女として生まれました。
増虎は家禄二百国を所領し、家老に抜擢されていましたが、縁戚筋にあたる藩主・大関増裕の自害、続く新政府軍についた会津戦争による財政難を目の当たりにし、自ら辞職します。帰農を試みたり、請われて黒羽藩の家知事(家老より降格)を務めたりしましたが、結局、親戚を頼って一家で上京し、うまくいかない商売に手を出したりしていました。
②結婚と離婚、看護婦の道へ
父・増虎が50歳で死去した1876年(明治9年)、19歳の和は、40歳の柴田豊之進福綱と結婚します。福綱は、黒羽藩次席家老の次男でした。明治10年に長男・六郎、明治13年に長女・シン(心)をもうけていますが、結婚前から続いていた福綱の妾問題に愛想を尽かし、ついに離縁に至りました。
1881年(明治14年)、上京した和は、キリスト教系の「正美英学塾」で英語を学びます。和の資質を見込んだ、植村正久牧師に説得され、1886年(明治19年)、やはりキリスト教系で、開設されたばかりの「桜井女学校附属看護婦養成所」に入学しました。6人いた一期生の同期の一人が鈴木雅です。
1年間の学課、「帝国大学医科大学附属第一医院」(現在の東京大学医学部附属病院)での1年の実習を経て、1888年(明治21年)に看護婦養成所を卒業しました。
ちなみに、和は在学中、植村によりキリスト教の洗礼を受けています。
③日本初のトレインドナース(正規看護師)として活躍
近代看護教育を受けた日本初のトレインドナースとして、すぐさま「帝国大学医科大学第一医院外科」の看病婦取締(看護婦長)に任命されます。
看護婦の資質向上などに努めますが、なかなか壁は厚く、失意のうち1890年(明治23年)には新潟に赴任し、桜井女学校の分校である「高田女学校」(現在の上越高等学校)の舎監兼伝道師に就任しました。翌年には、同地に「知命堂病院」が開院したのに伴い、初代看護長に就任しています。
1896年(明治29年)、東京に戻り、「桜井女学校」同期の鈴木雅が設立した「東京看護婦会」の講師となります。1899年には著作『派出看護婦心得』を出版。1901年(明治34年)には、鈴木の後任として「東京看護婦会」の会頭、また「日本キリスト教婦人矯風会」の理事など様々な要職を歴任しました。
④晩年と死去/死因、子孫、墓所
1909年(明治42年)には、自らの名を冠した「大関看護婦会」を設立。同年には孫の一郎が生まれていますが、翌年、長男の六郎(伝道先のジャワ島でマラリアに感染し死去)、その2年後には母のテツに先立たれました。
また、1911年(明治44年)には「大日本看護婦協会」の東京組合長に就任するなど、後進の養成と派出看護推進などに尽力しました。看護のみならず、キリスト教精神に基づき、娼婦廃止や婦人参政権運動などにも積極的にかかわっています。
1930年(昭和5年)に脳溢血を起こして不随となり、晩年を病床で過ごします。1932年(昭和7年)5月22日、病状が悪化し、本郷区本郷弓町にあった大関看護婦会で死去しました。満73歳。葬儀は千代田区にある富士見町教会で行われ、墓所は東京青山墓地にあります。
2026年3月には、黒羽小学校近くに、大関和の功績をたたえる記念碑が建立されました。
鈴木雅(大家直美のモデル)の生涯と実話
①生い立ちと家族
鈴木雅(すずきまさ)は、1858年2月9日(安政4年12月26日)、静岡出身の士族・加藤信盛と妻・トヨの間に生まれました。ただ、両親の経歴やそれにつながる雅の生い立ちについてはあまり詳しく記録に残っていません。
1872年(明治5年)、設立されたばかりの「アメリカン・ミッション・ホーム」(現在の横浜共立学園)に入学し、ここでキリスト教の洗礼も受けました。1881年(明治14年)ごろまで在籍しつつ、「フェリス・セミナリー」(現在のフェリス女学院)でも学んでいたようです。
②結婚と死別、看護の道へ
その間の1878年(明治11年)、大日本帝国陸軍少佐だった鈴木良光と結婚します。夫の赴任に従って京都、東京、仙台へと移り住みましたが、1883年(明治16年)に良光が病死。雅は長男の良一、長女のみつを連れて東京に戻りました。
夫の看病と死別によって看護の重要性を痛感し、また残された家族を養う必要性に迫られた雅は、1886年(明治19年)、「桜井女学校附属看護婦養成所」に一期生として入学。上述の通り、その時の同期が大関和であり、ここで2人は初めて出会いました。雅は英語が堪能だったため、外国人教師の通訳を務めながらの勉学だったようです。
卒業後、「帝国大学医科大学附属第一医院内科」の看病婦取締(看護婦長)に就任します。1891年(明治24年)には、自ら「慈善看護婦会」(1893年に東京看護婦会と改称)を設立。経済的困窮者や弱者に対する派出看護事業を開始する一方、1896年(明治29年)には「東京看護婦講習所」を開設し、後進の育成にもあたりました。
③引退と晩年、死去/死因
1901年頃には、「東京看護婦会」および「東京看護婦講習所」を大関和にゆだね、自身は40代半ばで第一線から退きます。詳しい理由は明らかではありませんが、病弱だった長男・良一の世話をするためでもあったと言われています。
東京の小石川から京都の稲荷山、最後は長女・みつと孫の康夫が暮らす静岡の沼津で余生を過ごしました。
1938年(昭和13年)に、長男の良一の最期を看取ってから2年後、1940年(昭和15年)6月11日、83歳で死去しました。死因、墓所は明らかではありません。
朝ドラ『風、薫る』はどこまで事実に即して描かれるのか?
上述した通り、ドラマ『風、薫る』は、大関和と鈴木雅という実在人物をモチーフにしつつ、フィクションをうたっていますから、事実とは異なる多くの創作がなされるものと推測されます。
特に、大関和と比べ、資料の少ない鈴木雅に関しては、かなり大胆な創作が盛り込まれるのではないでしょうか?
発表されている鈴木雅がモデルのヒロイン・大家直美に関しては、「生後まもなく親に捨てられ、キリスト教の牧師に育てられた」と説明されており、すでに大きく事実とは異なるものとなっています。
あまりに実像とかけ離れた設定は、間違いなく視聴者を興ざめさせてしまいますから、今後の展開を注視していきたいと思います。

