【光る君へ】藤原道長の生涯・父母/兄弟/妻/子の人物相関図

光る君へ・藤原道長 ドラマ

平安時代中期を舞台に、『源氏物語』を執筆した紫式部を主人公に描く、2024年のNHK大河ドラマ第63作『光る君へ』。

紫式部を吉高由里子が演じる中、その相手役的存在に位置付けられて描かれるのが、柄本佑演じる藤原道長です。

本記事では、そんな藤原道長と藤原氏に絞り、その生涯、家族の人物相関図などをできるだけわかりやすくご紹介したいと思います。

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『光る君へ』もう一人の主人公的位置付け、藤原道長

2024年1月7日に放送がスタートしたNHK大河ドラマ第63作『光る君へ』は、紫式部の生涯を描くドラマですが、同時代を生き、紫式部と深い関係がある藤原道長も、もう一人の主人公的の役割として位置づけられているのは間違いありません。

藤原氏は、奈良時代、平城京の終わりごろから次第に権力を広げていった貴族ですが、摂関家として最も権勢をふるった全盛期が、道長の時代です。

実際、紫式部の生涯より、権力の中枢にいた藤原道長の生涯の方がはるかに波乱に富んでおり、おそらくドラマは、紫式部の視点ながらも道長が関わる事件や出来事を中心に、展開していくものと推測しています。

主人公・紫式部の生涯については、以下の記事をご覧ください。

まずは、平安時代について、藤原氏という貴族について、簡単にご紹介しましょう。

■平安時代と藤原氏について

第50代桓武天皇が、平城京から約10年間の短い長岡京を挟み、延暦13年(794年)、平安京に都を移してから、1185年の鎌倉幕府成立までの約390年間を平安時代と言います。

藤原氏は、飛鳥時代の645年に中大兄皇子とともに「乙巳の変(いっしのへん)」を起こし、後に藤原姓を与えられた中臣鎌足を始祖とする一族です。(「大化の改新」のこと)

その子、不比等(ふひと)の時代に大きな権力をえ、不比等の4人の子が四つの家系(南家・北家・式家・京家)に分かれますが、他の家が衰退する中、栄華を誇ったのが北家であり、道長もその家系にあります。



藤原道長を中心とした略式家系図・人物相関図

2024年1月現在、すでに登場・発表されているキャストのみ併記してあります。

ちなみに、紫式部の父・藤原為時、母方の祖父・藤原為信も藤原氏北家の貴族ですが、別の家系にあたります。

※主要登場人物の生没年を比較した年表については、下記の記事をご覧ください。時系列がわかりやすくなるかと思います。

藤原道長の生涯

藤原道長は、康保3年(966年)、摂関家の流れをくむ藤原兼家の五男(母・時姫の三男)として生まれました。父の兼家は、道長の叔父にあたる兄の兼通と不仲だったため一時不遇の時代を過ごしましたが、道長も同様に、兄の道隆や道兼とは不仲でした。

寛和2年(986年)、父・兼家と次兄・道兼は、寵妃を亡くした花山天皇を出家・譲位に仕向け(寛和の変)、円融天皇と姉・詮子の子であった一条天皇を7歳で即位させます。外戚となった兼家は摂政に任じられて権力の座につき、それに合わせて、道長ら息子らも破格の出世を果たしました。

天皇は、譲位すると「上皇」、出家すると「法皇」、あるいはまとめて「院」と呼ばれました。
「中宮」とは皇后の意味、「女御(にょうご)」とは天皇の「後宮」です。
一方、「東宮」とは皇太子あるいはその住まいを指す言葉です。「親王」も皇太子の意味です。

永延元年(987年)、道長は左大臣・源雅信の娘である倫子と結婚します。翌年には長女の彰子が誕生。さらに、かつて左大臣を務めていた源高明の娘である明子も妻とするなど、その後も多くの妻を持ち、子をもうけました。

父の兼家が、正暦元年(990年)に死去すると、長兄の道隆が摂政を継承。長女の定子を一条天皇の中宮として入内させ、長男の伊周も昇進させるなど、兄の強引なやり方に、道長は反発していたと言います。

道長と倫子が結婚し、暮らした寝殿造りの主邸が「土御門殿(つちみかどどの)」です。現在の京都御所北側の京都御苑にあたります。ちなみに、父・兼家の主邸は「東三条殿」です。

長徳元年(995年)、兄の道隆と道兼が相次いで死去すると、道長と甥にあたる伊周の対立が激化します。当初は伊周側にあった一条天皇ですが、母である詮子(道長の姉)に説得され、その結果、道長は摂関に次ぐ内覧に就任しました。

翌年、伊周と弟の隆家が、花山法皇に向け矢を射るという事件を起こし、左遷されます(長徳の変)。道長は左大臣に昇進し、いよいよ実権の掌握に向かうこととなりました。

「摂政」とは、天皇が幼少時に補佐する役職。成人した天皇を補佐する場合は「関白」とよび、仕事内容は同じです。「内覧」とは、天皇に奏上する書類を前もって確認する役職であり、摂関に次ぐ、あるいは同レベルに重要な役職でした。

長保元年(999年)、道長は、長女・彰子を中宮として入内させます。一条天皇は、定子と彰子という異例の一帝二后の状態となりましたが、1年もたたず、定子が親王出産後に死去したため、彰子が唯一の后となりました。

寛弘7年(1010年)に、三条天皇が即位すると、今度は次女の妍子を中宮として送り込みます。長和5年(1016年)には、病を理由に三条天皇を退位させることで、一条天皇と長女・彰子の子を後一条天皇として即位させ、道長はついに外祖父として摂政に就任するに至りました。

その後も、寛仁2年(1018年)には、四女の威子を後一条天皇の中宮に、さらに六女の嬉子を、弟の敦良親王(のちの後朱雀天皇)の后とするなど、次々と外祖父としての地位を固めていったのです。

この頃、道長が詠んだと言われる和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」は、権力の絶頂期を象徴するものとして有名です。また、道長が20年以上に渡って記していた日記『御堂関白記』は、世界最古の直筆日記とされ、国宝およびユネスコ記憶遺産に指定されています。

道長は、すでに寛仁元年(1017年)の時点で、摂政を長男の頼通に譲っており、自身の後継についても早くに体制を整えていました。

寛仁2年(1018年)には太政大臣も辞し、翌年、出家。自ら創建した法成寺で晩年を過ごしていましたが、万寿4年(1028年)、享年62で死去しました。死因は癌とも糖尿病とも言われています。火葬後、現在の京都府宇治市にあった「宇治陵」に埋葬されましたが、ほとんど現存せず、埋葬地も不明です。

太政大臣とは、不在の時期もありますが、官職のトップにあたります。太政大臣→右大臣・左大臣→内大臣→大納言→中納言→参議などと続き、太政官とはそれら官職の総称です。これに対し、位階とは個人の位を指し、最上位の正一位→従一位→正二位と細かく分けられ、律令制では30の序列がありました。



『光る君へ』に登場する藤原道長の主な家族(父母・兄弟・妻・子)紹介

すでに藤原道長の生涯の中で取り上げている人物もいますので、それぞれ簡潔に紹介します。また没年は享年で統一しています。

※2024年1月現在の番組情報に基づいており、追加のキャストが発表され、新たに登場する重要な人物がいましたら、追記したいと思います。

兼家は、摂関家である右大臣・藤原師輔の三男として生まれました。次兄の兼通との確執などあり、一時不遇の時代を送りましたが、娘の詮子の入内、後に一条天皇となる懐仁親王の誕生などをきっかけに、次第に復権します。

花山天皇を譲位に導き、一条天皇が即位すると、外祖父の兼家が摂政となります。以後の摂関は兼家の血筋で独占し、事実上の権力を確立しました。

従兄・頼忠の死去すると、後任の太政大臣に就任します。永祚2年(990年)には関白となりますが、わずか3日で長男の道隆に譲って自らは出家。ほどなく享年62にて病死しました。

摂津守・藤原中正の娘が時姫であり、兼家の妻となって二女三男をもうけました。天元3年(980年)、夫が摂政になる前に、死去したと伝わっています。

兼家と時姫の嫡男が道隆です。天暦7年(953年)の生まれであり、道長とは13歳の年齢差があります。

甥にあたる一条天皇が即位したのちは、父とともに出世。永祚2年(990年)には、歌人としても有名な妻・高階貴子(演:板谷由夏)との間にもうけた長女・定子を入内させ、また病を理由に辞任した父の後を継いで、関白・摂政を務めました。道隆の家系を「中関白家」と言います。

長徳元年(995年)、病に伏した道隆は、嫡男の伊周を後継者にしようと動きましたが、それも叶わぬまま、享年43にて死去しました。

応和元年(961年)、兼家と時姫の次男として生まれたのが道兼です。

寛和2年(986年)、「寛和の変」では、父・兼家の命を受け、花山天皇を出家・譲位に追い込みました。一条天皇即位に合わせ、父とともに昇進。兼家は、道兼を後継者に望んでいましたが、兼家の死後、兄・道隆が関白に……。5年後、道隆の死去後にようやく関白となりましたが、就任わずか数日で、道兼も病死しました。享年34。

ドラマでは、紫式部の母を殺したという設定ですが、それは創作だと思われます。

応和2年(962年)、兼家と時姫の間にうまれた次女が詮子(せんし/あきこ)です。天元元年(978年)、円融天皇のもとに入内し、やがて第一皇子にあたる懐仁親王(のちの一条天皇)をもうけました。

関白・藤原頼忠の次女・遵子に天皇の寵愛が向けられ、そのため実家「東三条邸」にこもることが多かったようですが、一条天皇即位に伴い、次第に力を持つようになりました。正暦2年(991年)、円融法皇崩御に合わせ、詮子も出家。常に弟・道長の味方に立ち、長徳2年(996年)の「長徳の変」では、甥・伊周の排除のため動いていたと言います。

長保3年(1002年)、享年41にて死去しました。

天暦9年(955年)、兼家と『蜻蛉日記』で有名な道綱母(演:財前直見)の間に生まれた、道長の異母兄が道綱です。

「寛和の変」では、異母兄にあたる道兼と協力して行動。一条天皇即位にあわせ、兄弟とともに出世しますが、母が嫡妻ではなかったことから、道長よりも下の位階に留まりました。

寛仁4年(1020年)、病により享年66にて死去しました。



天延2年(974年)、道隆と高階貴子の間に生まれた嫡男が伊周(これちか)です。正暦元年(990年)、父・道隆が摂政就任、妹・定子が中宮となると、嫡男だった伊周も飛躍的に昇進します。

しかし、強引ともいえる伊周の出世は、周囲の不満を招きます。道隆、続く道兼死去により、伊周と道長の対立が表面化。長徳2年(996年)、伊周と弟の隆家が、花山法皇に向け矢を放った事件に端を発した「長徳の変」により、大宰府の大宰権帥に左遷されました。

定子の親王出産による大赦を受け、翌年には帰洛しましたが、寛弘7年(1010年)、失意のまま享年36にて死去しました。

貞元2年(977年)、道隆と貴子の間に生まれた長女が定子(ていし/さだこ)です。正暦元年(990年)、数え14歳で一条天皇に入内し、父・道隆も関白に就任しました。

しかし、「中関白家」の栄華も束の間、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、兄の伊周と道長の対立が露呈。既述のとおり、「長徳の変」により伊周も弟の隆家も左遷されますが、一時、2人を匿っていた定子も、悲嘆のうちに自ら髪を落としました。

長徳2年(997年)に一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を、長保元年(999年)には第一皇子となる敦康親王を出産します。ところが上述のとおり、翌年、道長の長女・彰子が皇后となり、異例の「一帝二后」に……。

第二皇女となる媄子内親王を出産した直後の長保2年(1001年)に崩御しました。享年24。

天元2年(979年)、道隆と貴子の間に生まれた次男が隆家です。兄・伊周と同じような道を歩み、「長徳の変」により、出雲権守に左遷されました。

長徳4年(998年)に大赦を受けて帰洛。大宰権帥などを務めた後、長久5年(1044年)に死去しました。享年66。

康保元年(964年)、左大臣の源雅信(演:益岡徹)と穆子(ぼくし/あつこ、演:石野真子)の間に生まれたのが倫子(りんし/みちこ)です。宇多天皇の曾孫にあたります。

永延元年(987年)に道長と結婚し、三男三女をもうけました。その子らは、次々と天皇の后となるなど皇室との深い関係を築き、道長の栄華を支えることになります。

万寿4年(1027年)に夫の道長が死去。さらに娘の嬉子、妍子、威子にも先立たれる中、長暦3年(1039年)に出家しました。それでも当時としてはかなりの長寿となり、天喜元年(1053年)、享年89にて死去しました。

複数の妻・妾をとった道長ですが、正室とされる倫子と同様、多くの子をもうけた妻が明子です。

左大臣・源高明の娘であり、倫子と結婚した翌年の永延2年(988年)に明子とも結婚したとされていますが、その逆との説もあります。

明子も四男二女をもうけましたが、父・高明がすでに故人であり、後ろ盾がなかったことも影響してか、倫子の子らほどの引き立てを得られることはありませんでした。

生誕年は不明ですが、亡くなったのは永承4年(1049年)です。

永延2年(988年)、道長と倫子の間の長女として生まれたのが彰子(しょうし/あきこ)です。

既述のとおり、長保元年(999年)、12歳にして一条天皇の中宮として入内。すでに定子がおり、一帝二后の状態となりましたが、まもなく定子が死去し、彰子が唯一の后となりました。

定子が産んだ第一皇子・敦康親王の養母となりつつ、彰子自身も、寛弘5年(1008年)に第二皇子となる敦成親王(のちの後一条天皇)を、寛弘6年(1009年)に第三皇子となる敦良親王(のちの後朱雀天皇)をもうけ、これにより道長の栄華は不動のものとなりました。

寛弘8年(1011年)、一条天皇が病に伏すと、父の道長は譲位を迫り、第一皇子の敦康親王ではなく、三条天皇を即位させます。こうしたやり方に彰子自身は不満を抱いていたと言われています。同年に一条院が崩御し、長和5年(1016年)には、敦成親王が後一条天皇に即位しました。

晩年は、天皇に即位した2人の子、さらに孫にまで先立たれ、承保元年(1074年)、享年86で崩御しました。

正暦3年(992年)、道長と倫子の間にうまれた嫡男が頼通です。

長和6年(1017年)、まだ20代の若さにして、父・道長から後一条天皇の摂政を譲られて就任。道長の死後も、後朱雀天皇、続く後冷泉天皇の関白を長きにわたって務め上げます。道長に続き、藤原氏の全盛期を担った人物として知られています。

永承7年(1052年)には、かつて道長の別荘であった宇治殿を改修して「平等院鳳凰堂」を造営するなど、権勢を誇りました。

しかし、後冷泉天皇の后とした長女・寛子は男子に恵まれず、また相次ぐ戦乱で体制は揺らぎ始めます。さらには、それまで冷遇していた後三条天皇が即位したこともあり、藤原氏の権力は次第に衰退へと向かいました。

延久6年(1074年)、享年82で死去。姉の彰子、弟の教通もほどなく亡くなり、権力は、白河天皇譲位後の院政時代へと向かいます。



ドラマに登場するその他の藤原氏

藤原氏北家の中でも、兼家・道長の九条流に対し、嫡流である小野宮流の当主であり、有職故実に詳しい学識人として知られたのが、実資(さねすけ)です。

道長に対しては、ときに批判的に、ときによき相談相手となり、最終的には右大臣にまで上り詰めました。実資の残した日記『小右記』は、当時の宮中を知る貴重な日本史資料となっています。永承元年(1046年)、90歳で死去。

関白太政大臣まで上り詰めた、小野宮流の頼忠(演:橋爪淳)の嫡男であり、実資とはいとこの関係になるのが公任(きんとう)です。

姉の遵子が円融天皇の皇后となり、続く花山天皇の代に至るまでは順調に昇進しましたが、寛和2年(986年)に一条天皇が即位すると、父・頼忠が関白を辞任して兼家が摂政となり、実権が九条流に移りました。

中古三十六歌仙の一人であり、『和漢朗詠集』の撰者としても有名です。長久2年(1041年)、享年76で死去。

九条流、右少将・義孝の長男であり、一条天皇の四納言の一人を務めたのが行成(こうぜい/ゆきなり)です。

道長、そして道長の長男である頼通の側近として仕えました。また行成は、書家として誉れ高く、平安時代の「三蹟」のうちの一人です。万寿4年(1027年)、道長とまったく同日、享年56にて死去しました。

兼家の兄弟であり、太政大臣を務めた藤原為光(演:阪田マサノブ)の次男が九条流の斉信(ただのぶ)です。つまり、道長とはいとこの関係にあたります。

藤原公任・藤原行成・源俊賢(演:本田大輔)と共に一条天皇に仕える四納言の一人として知られる一方、道長、そして道長の長女・彰子に仕えました。和歌・漢詩に通じた文化人として知られています。長元8年(1035年)、享年69で死去しました。



『光る君へ』は、藤原道長の死まで描く?

『光る君へ』の主人公はあくまでも紫式部であり、紫式部の没年は、諸説あるものの1014年あたりから1025年あたりの間と推測されています。

藤原道長の没年は1028年で、紫式部より長く生きており、とすると、さすがに道長の死までは描かれない可能性が高いのではないでしょうか?

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