朝ドラ【ばけばけ】登場人物のモデル:15人の実在人物/実話/その後

ばけばけ・モデル ドラマ

『あんぱん』に続き、2025年度9月29日にスタートしたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)第113作の作品が『ばけばけ』です。

前作に続く本作でも、実話から着想を得たオリジナルストーリーをうたっていますが、言うまでもなく、ヒロインの松野トキ、その夫となるレフカダ・ヘブンはもちろん、多くの登場人物に実在したモデルがいます。

本記事では、モデルとなっているそうした人物について、略歴や実話、その後など含めてご紹介しましょう。

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NHK朝ドラ『ばけばけ』のモデルは小泉八雲と妻セツ

2025年9月29日にスタートしたNHK連続テレビ小説第113作『ばけばけ』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻・セツをモデルとしたヒロインが、激動の明治を生き抜く姿を描く物語です。

ヒロインの松野トキ役を髙石あかり、八雲をモデルとしたレフカダ役を『SHOGUN 将軍』で注目された英国人俳優のトミー・バストウが演じます。

ふじきみつ彦が手掛ける脚本は、実話をもとにしたフィクションをうたっており、一部で大胆な創作や再構成がなされるはずです。しかしながら、主人公の2人やその家族はもちろん、多くの登場人物に実在のモデルがいるということには変わりはありません。

どこまで創作が持ち込まれるかは現時点では不明ですが、ここではドラマとは別に、モデルとなっている実在の人物たちとは、いったんどんな人だったのか、略歴など簡単にご紹介しましょう。

※松江を中心に行われているドラマのロケ地について紹介した記事もあります。

『ばけばけ』のモデルとなった実在人物15人の実話

家族については、以下の略式家系図を参考にしてください。また、それぞれの関係性についてはヒロインから見た立場を記しています。

【家族関係】

髙石あかり演じるヒロイン・松野トキのモデルは、言うまでもなく後にラフカディオ・ハーンの妻となる小泉セツです。

セツは、1868年2月26日(慶応4年2月4日)、出雲松江藩で三百石の家禄を持つ上級士族・小泉家の次女として生まれ、生まれてすぐ親戚・稲垣家の養女となりました。本ドラマでは、稲垣→松野、小泉→雨清水と置き換えられているようです。

セツの生涯については、以下の記事で詳しく紹介していますので、下記をご覧ください。

英国人俳優のトミー・バストウが演じるレフカダ・ヘブンのモデルが、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンです。

ラフカディオ・ハーンは、1850年6月27日、当時イギリスの保護領だったギリシャのレフカダ島で、三兄弟の次男として生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人です。

両親のこと、渡米しての最初の結婚、その後来日する経緯、セツとの出会い、晩年など、ハーンの生涯についても、下記の別の記事で詳しく紹介していますのでご参照ください。

小泉家とは出雲大社がらみで遠縁にあたる稲垣家では、子どもがいなかったため、セツが生まれる前から養子縁組が決まっていました。小泉家は三百石の格式ある上級士族、稲垣家はそれより劣る百石の平均的な士族でした。

養父となる稲垣金十郎は、そのとき26歳。養父母、養祖父の愛情を注がれ、大切に育てられたセツですが、3歳になる頃にはなんとなく自分が養女であることに気づいていたようです。

家が没落し、生活に困っていたのに、人のいい金十郎はたびたび詐欺にかかり、婿にきた為二からも呆れられるほどでした。

後年は、八雲の転居に伴い、熊本、神戸、東京と同居生活を送ります。1900年(明治33年)11月、東京で胃潰瘍により亡くなりました。

24歳の時、セツの養母となった稲垣トミは、家禄百石の原忠兵衛の娘として生まれましたが、幼い頃、杵築大社の高家にして、出雲大社の上官を代々務めていた高浜家の養女となります。

そうした育ちから、トミは出雲の神話や説話に詳しく、よくセツに話して聞かせたことが、後にハーンの執筆の役に立ったことは言うまでもありません。

後年は、夫の金十郎同様、セツと八雲の転居に同行し、熊本、神戸、東京に暮らしました。1901年(明治34年)9月には、セツは自らの二男の巌をトミの養子に出し、稲垣家を継がせています。

トミは、1912年(明治45年)8月に死去。セツは1月に実母のチエを亡くしたばかりでした。セツは、稲垣家の墓を、菩提寺である松江の万寿寺に建立しています。

セツを養女に迎え時、稲垣家の戸主は、金十郎の父である、当時49歳の稲垣万右衛門でした。

万右衛門は、典型的な武士気質の持ち主であり、幕末には砲術方として、隠岐の砲台見回り、さらに将軍・徳川家茂上洛の際には二条城などの京都警備にあたっていました。

万右衛門は、セツが3歳の時に隠居しましたが、晩年に至っても武士としての気位を持ち続けていたようです。

万右衛門も熊本に同行し、1898年(明治31年)、故郷の松江にて死去しました。ハーンが帰化した際、「八雲」と命名したのは万右衛門だとの説もあります。



セツの実父である小泉弥右衛門湊は、代々、松江藩の番頭を務める三百石の上級武士であり、妻・チエとの間に、セツを含め四男二女をもうけました。

明治維新に伴い、一足早く機織会社を設立し、生活に困る士族の子女を雇っていました。事業も当初は順調でしたが、次第に傾き始めて倒産。それでも、湊が存命中は借金もせず、なんとか生活を維持できていましたが、1887年(明治20年)に湊が亡くなると、小泉家も一気に没落したようです。

そのとき、セツは19歳であり、前田為二を婿養子に迎えてすぐ出奔された時期でした。

セツの実母である小泉チエは、松江藩の家老であり、千石を持つ塩見家の一人娘として生まれました。1851年(嘉永4年)に湊と結婚。しかし、実はその前に一度婚礼を挙げた過去があり、初夜、新郎と侍女の心中事件に遭遇し、それでも冷静を保ったとの逸話があります。

湊との間に、長男・氏太郎、二男・武松、長女・スエ、次女・セツ、三男・藤三郎、四男・千代之助の四男二女をもうけました。

1912年(明治45年)1月に大阪で死去。セツはわざわざ東京から大阪に出向き、看病にあたったそうです。

湊とチエがもうけた6人の子のうち、1858年(安政5年)に生まれた長男が小泉氏太郎です。

小泉家の跡取りとして大切に育てられましたが、湊とチエの期待を裏切ります。町屋の娘と恋仲になり、駆け落ちして出奔してしまうのです。

行方知れずのまま、下記の通り三男の藤三郎もあてにならず、セツが小泉家の負担も一人で背負うことになったと言われています。

上記の通り、長男の氏太郎は、町娘と駆け落ちして行方知れず、二男の武松は19歳で夭折(よってドラマには登場せず?)、四男の千代之助は婿養子に出るも離縁されて出戻りと、跡取りに悩む中、頼りの三男・小泉藤三郎も、怠け者で働こうとせず、鳥の飼育ばかりに夢中になる道楽者だったと言われています。セツより2歳下です。

父の湊が亡くなり、母チエの面倒をみなくならなくなってもそれだけの生活力はなく、セツと八雲からの仕送りに頼っていました。晩年は小泉家の墓も売り払い、とうとうセツから絶縁同然の状態だったといいます。

散々親不孝をした挙句、最期は45歳とも50歳のときとも諸説ありますが、大正時代、孤独のうちに亡くなったようです。

セツが婿取りした相手が、鳥取藩の足軽の二男だった前田為二でした。

しかし稲垣家のあまりの困窮ぶりと多額の借金、さらに稲垣家より格下の身分を見下す万右衛門、
生活力のない金十郎らに愛想をつかし、一年足らずで出奔してしまいます。

大阪にいるとの情報を得たセツが迎えに行きましたが、為二の意志は固く、離縁となりました。

その後の為二の行く末についてはあまり詳しくわかっていませんが、大阪で商売を成功させたとの説もあります。

まだ役名も演じる子役も未発表ですが、間違いなく登場するであろう八雲とセツの間に生まれた第一子が小泉一雄です。

1893年(明治26年)11月17日、2人が熊本で暮らしていたときに誕生。ただ、当時は戸籍問題が解決しておらず、一雄は私生児として届けられます。このため、セツが小泉家から分家し、そこにハーンが「小泉八雲」として婿入りする入籍の形をとり、一雄も正式な長男となりました。

一雄は、大学を卒業後、父の知り合いが経営していた横浜グランドホテルで働いていましたが、関東大震災を機に母のもとに戻ります。翌1924年には輿水喜久恵と結婚。母のセツが亡くなった後は、妹の寿々子を引き取り、面倒を見ていました。

晩年は、『父 小泉八雲』や『父八雲を憶ふ』といった著作を発表。妻・喜久恵との間にもうけた長男・小泉時の子が、現在「小泉八雲記念館」館長をつとめている小泉凡です。

ちなみに、セツと八雲は、一雄のほか、二男・巌、三男・清、長女・寿々子の4子をもうけていますが、4きょうだいのうち一雄は最も長く生き、1965年(昭和40年)に亡くなりました。



滞米中のハーンがニューオーリンズで出会い、淡い恋心を抱くと同時に、来日を志す上で多大な影響を受けた女性が、アメリカ人女性ジャーナリストの草分け的存在とも称されるエリザベス・ビスランドです。

ルイジアナ州の裕福な農園に生まれ、記者を志して「ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット」で働いていた時、同じく在籍していたハーンと知り合いました。

ビスランドはジャーナリストとしてのキャリアを順調に重ね、ハーンがニューオーリンズからニューヨークへと移ったとき、ビスランドはすでに「コスモポリタン」誌の編集者として注目される存在でした。ハーンは、美貌のビスランドに恋心を抱いていたとも言われていますが、ビスランドはその後、弁護士であり鉄道会社も所有していた富豪のチュールズ・ウエットモアと結婚しています。

ハーン来日後も手紙のやりとりがあり、ハーン死去を新聞で知ったときには、セツに哀悼の手紙を送っています。ビスランドは、その後ハーンの伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』を刊行し、その印税は小泉家に寄贈しました。そればかりか、ハーンの膨大な作品の著作権を確保し、その印税もセツの一家が受け取れるよう尽力しました。

3度来日し、松江にも訪問しています。1929年1月6日、67歳で亡くなりました。

横浜に上陸したものの、すぐ出版社の通信員の職を破棄したハーンですが、松江の尋常中学校で英語教師の職を得ます。その手助けをした一人が、当時島根県知事だった籠手田安定(こてだやすさだ)です。

籠手田は、廃藩置県後の初代県知事であり、1890年(明治23年)に東京でハーンを招聘し契約を結びました。

剣道心形刀流の免許皆伝を持つ豪傑でしたが、松江では三女・淑(よし)、四女・従(じゅう)と暮らしていた松江の自宅にしばしばハーンを招きもてなしたようです。ドラマでは娘の江藤リヨ(演: 北香那)が登場するようですが、淑もしくは従がモデルでしょう。

籠手田は、その後新潟県知事、滋賀県知事、貴族院議員を歴任。1899年(明治32年)、58歳で死去しました。

島根県尋常中学校の英語教師として赴任してきたハーンの世話係となり、その後無二の親友兼最大の理解者として支え続けたのが、同校の教頭だった西田千太郎でした。

千太郎は、1862年(文久2年)、松江の下町・雑賀町に、下級士族である足軽の長男として生まれました。ハーンとセツの結婚に際しては媒酌人も務めていますが、当初、千太郎とセツの関係はあまり良好なものではなかったと言われています。というのも、ハーンの住み込み女中となったセツのことを妾扱いしたからでした。

若い頃から病弱であり、1897年(明治30年)、享年にして36歳の若さで結核により亡くなりました。安食クラと結婚し、一女三男をもうけています。

松江にやってきた八雲が最初に暮らした旅館が「富田屋」でした。当時は、材木町と呼ばれていた大橋川の北側にあり、ハーンが織原家の借家に移るまで暮らしていました。ドラマでは「花田旅館」の名前で登場します。

生瀬勝久演じる花田平太のモデルが主の富田太平、池谷のぶえ演じる花田ツルのモデルが女将の富田ツネ、野内まる演じる女中・ウメのモデルが、実際にハーンの世話をしていた女中のノブでしょう。

「小泉八雲資料館」の資料では、富田太平より女将のツルの方が紹介されており、実際はツルの存在の方が大きかったのではないでしょうか?担当女中のノブが目の病にかかった時には、ハーンがその治療費の援助をするなど、家族のような近い交流を持っていたようです。

「富田屋(富田旅館)」の流れをくむ「大橋館」が松江しんじ湖温泉に現存しています。



朝ドラ『ばけばけ』はどこまで実話に即して描くのか?

以上、ドラマに登場する人物のモデルと考えられる実在人物をご紹介しました。

もしかして大幅に氏名に変更のある人物は、実話より大幅な脚色が加えられるのかもしれません。

また今後、新たなキャストと登場人物が発表されましたら、随時、記事を更新していきます。

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