2021年2月より12月まで放送されたNHK大河ドラマ第60作『青天を衝け』。
激動の幕末から明治を舞台に、「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一の波乱の生涯を描く歴史ドラマです。
本記事では、そんな主人公・渋沢栄一ゆかりの生家や記念館などご当地、そして実際に見て回るおすすめコースやアクセスなどについても、詳しくご紹介します!
NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一のご当地とは?
渋沢栄一は、1840年(天保11年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれました。若い頃は京都や静岡を舞台に活動した時期もありますが、明治政府に仕官して以後は、東京を拠点に日本経済のため尽力しました。
1931年(昭和6年)11月11日、東京の自邸にて亡くなり、墓地も都内にあります。
まず生誕地である深谷市、続いて東京都内、最後に静岡と、ゆかりの地を3つに分けてご紹介したいと思います。
ゆかりの地①【埼玉県深谷市】
血洗島は最寄りの鉄道駅である深谷駅から少し離れており、かなりの健脚派でない限り、アクセスは車あるいは深谷駅からバスかタクシーの利用になります。
タクシーであれば深谷駅から「中ん家」まで約20分前後、バスについては現在下記の2ルートがありますが、おすすめは期間限定の循環バスです。
①期間限定「渋沢栄一 論語の里 循環バス」
深谷市内にある渋沢栄一ゆかりの場所を効率よく回ることのできる期間限定のバスです。運航は令和4年1月10日までを予定しており、運賃は乗り降り自由の1日乗車券が大人500円・小人250円です。平日7便・土日休13~14便ですが、新型コロナの影響で休止している日もありますので事前に公式ホームページでご確認ください。
深谷観光バス株式会社
電話:048-571-1881
公式HP:https://www.fukayakanko.com/rongo-no-sato/
②コミュニティバス「くるリン」北部シャトル便
深谷市のコミュニティバスで、北部シャトル便が深谷駅と渋沢記念館の間を、一日数回往復しています。料金は1回乗車ごとに2km未満が100円、2km以上が200円です。また事前予約型デマンド・バスや、北コース西循環という別ルートもありますから詳しくはホームページでご確認ください。
深谷市都市計画課
公式HP:http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/toshiseibi/toshikeikaku/tanto/komyunitibasukururin/1424933812224.html
1.JR高崎線深谷駅北口・青淵広場
青淵とは渋沢栄一の雅名であり、北口の青淵広場には渋沢栄一の銅像があります。現在あるものは1996年に建立されたもので、それ以前の古い銅像は渋沢栄一記念館に移設されています。
ちなみに、銅像と同年に完成した現在の深谷駅の駅舎は、東京駅を模したものですが、それは使用されたレンガの一部が頑丈さで知られる深谷製だったことに由来します。そのレンガを製造した日本煉瓦製造株式会社も栄一が設立した会社です。
ちなみに、日本煉瓦製造株式会社の旧煉瓦製造施設も重要文化財に指定されており、見学が可能になっています。お時間に余裕のある方におすすめです。
旧煉瓦製造施設
所在地:埼玉県深谷市上敷免28-10
JR深谷駅からコミュニティーバス「くるリン」北部定期便、「せきね商店前」にて下車。
2.旧渋沢邸「中の家」
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は、渋沢栄一の生家があった場所に、栄一の妹のてい夫婦が1895年(明治28年)に建てた屋敷です。栄一が東京から帰省した際にはここに滞在していました。
中庭まで入ることができ、主家や複数ある土蔵などの外観を見学できるほか、現在は和装姿の渋沢栄一のアンドロイドがプレ公開されています。庭には、1983年に建立された若き日の渋沢栄一の銅像もあります。
「中の家」の近所にある血洗島の鎮守「諏訪神社」(深谷市血洗島117)の拝殿は栄一が寄進したものであり、境内には栄一の喜寿を祝った石碑があります。また獅子舞で知られる神社であり、その様子はドラマでも描かれました。
3.渋沢栄一記念館
渋沢栄一ゆかりの遺墨やさまざまな写真・資料が展示されているほか、講義室では、渋沢栄一のリアルなアンドロイドの講義を聴くこともできます。
また記念館の裏手には栄一の雅名に由来する青淵公園があり、清水川に面した98,000㎡の敷地でひとときの休息をとるのもおすすめです。
4.尾高惇忠生家
渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった尾高惇忠の生家です。ドラマでは田辺誠一が演じている役どころです。惇忠はのちに富岡製糸場の初代場長も務めました。
家屋は、惇忠の曽祖父が建てたものといわれ、攘夷運動に傾倒した惇忠や栄一らが密議したといわれる部屋が二階(非公開)にあります。
渋沢栄一記念館と尾高惇忠生家のちょうど中間地点にある「鹿島神社」(深谷市下手計1145)は、旧下手計村の鎮守であり、境内には栄一らが惇忠の功績を称えた「藍香尾高翁頌徳碑」があります。
5.誠之堂・清風亭
誠之堂は、1916年(大正5年)、喜寿を迎えた渋沢栄一が頭取を退任した際、それを記念して第一銀行の行員たちの出資によって建築された建物です。
渋沢栄一自身が命名し、建築家の田辺淳吉が設計した煉瓦造平屋建であり、大広間のステンドグラスも有名です。平成15年には国の重要文化財に指定されました。
清風亭の方も同じく、1926年(大正15年)に、第一銀行頭取だった佐々木勇之助の古希を記念し建築されたものです。渋沢栄一が頭取時代には補佐として尽力した人物です。
6.「渋沢栄一 青天を衝け 深谷大河ドラマ館」【閉館】
大河ドラマ『青天を衝け』の放送を記念し、期間限定で開設されたドラマ館です。
ドラマで使用された小道具や衣装などにくわえ、メイキング映像の上映など、ドラマの世界をさまざまな展示で楽しむ目的で設けられました。
※こちらは、2022年1月10日に閉館しました。
※深谷市内散策おすすめモデルコース
<じっくりコース>
JR深谷駅→(バス)→渋沢栄一記念館→(徒歩)→中の家→(徒歩)→諏訪神社→(徒歩)→渋沢栄一記念館(青淵公園で休息)→(徒歩)→鹿島神社→(徒歩)→尾高惇忠生家→(バス)→誠之堂→(バス)→JR深谷駅
マイカーで移動の際には、どこか一か所に駐車し、血洗島近辺は散歩を兼ねて徒歩で見て回るルートをおすすめします。さらに時間がある場合は、上記でご紹介したとおり、日本煉瓦製造株式会社の旧煉瓦製造施設に足をのばされてみてはいかがでしょうか?
<時間セーブコース>
JR深谷駅→(バス)→渋沢栄一記念館→(徒歩)→中の家→渋沢栄一記念館(青淵公園で休息)→(徒歩)→尾高惇忠生家→(バス)→JR深谷駅
さらに時間をセーブしたい方は、深谷駅から「中の家」までタクシーを利用されてはいかがでしょうか?
ゆかりの地②【東京都内】
渋沢栄一は、明治政府大蔵省への出仕が決まり、妻の千代と娘の歌子を伴って静岡から東京に移りました。以後、下記のとおり6度にわたり引越しを繰り返していますが、残念ながら飛鳥山の一部以外はすべて現存していません。
1869年(明治2年)~:湯島(現在の千代田線湯島駅あたり)
1872年(明治5年)~:裏神保町(現在の一誠堂書店あたり)
1873年(明治6年)~:海運橋(第一国立銀行が近くあったため)
1876年(明治9年)~:深川福住町
1888年(明治21年)~:兜町
1901年(明治34年)~:飛鳥山
中でも、兜町に建てられたヴェネチアン・ゴシックの洋館は、辰野金吾による明治を代表する名建築として知られていましたが、1923年(大正12年)の関東大震災によって全壊しました。
1.渋沢資料館(飛鳥山旧渋沢邸跡地)
渋沢栄一は、1878年(明治11年)、北区飛鳥山の地に別邸を建設していますが、明治34年以後は本邸として余生を過ごしました。
しかし、太平洋戦争時の空襲によって建物の大部分を焼失。1982年(昭和57年)、その跡地に渋沢資料館が開館しました。
大正時代、庭園(現在は旧渋沢庭園の名)に建築された「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫」は現存して一般公開されているほか、1998年(平成10年)には本館が新築され、その生涯と功績に関わるさまざまな資料を展示しています。
晩香廬と青淵文庫
【 晩香廬・青淵文庫の内部見学 】#渋沢史料館 のリニューアルオープンにあわせ、 #渋沢栄一 のレセプション・ルーム「晩香廬」 と、 書庫や接客の場「青淵文庫」 の内部見学がスタート!
— 渋沢×北区 青天を衝け 大河ドラマ館【公式】 (@shibusawakitaku) November 19, 2020
ステンドグラスが映える青淵文庫には、展示コーナーが新設されました。
写真:渋沢史料館所蔵・渋沢史料館提供 pic.twitter.com/nAApVni8NJ
「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿を祝って清水組から贈られた木造の洋風茶室であり、来客を接待するために使用されていました。
「青淵文庫」は、渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建洋館の書庫です。渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んだステンドグラスやタイルも見どころです。
ともに国の重要文化財に指定されています。
2.「渋沢×北区 青天を衝け 大河ドラマ館」【閉館】
深谷市のみならず、飛鳥山公園内にも、もう一つの大河ドラマ館が開館。東京23区初の大河ドラマ館でした。
高さ8mの大型スクリーンによる映像展示、4Kドラマシアターにくわえ、ドラマで使用された衣装や小道具なども展示されました。
※こちらは、2021年12月26日に閉館しました。
3.谷中霊園(渋沢栄一の墓)
台東くん!
— 台東くん (@taito_kun) May 24, 2021
今日は #谷中霊園 にある #渋沢栄一 のお墓を紹介するパゴッ!NHKの #大河ドラマ 「 #青天を衝け 」の主人公パゴッ!
霊園内には徳川慶喜のお墓もあって、関係の近さが分かるパゴッ!
お墓には「青淵澁澤榮一墓」と刻まれているパゴッ!青淵(せいえん)は雅号パゴッ!#聖地巡礼 #吉沢亮 pic.twitter.com/6SiUUFRGiP
渋沢栄一の墓は、谷中霊園内、乙11号1側にあります。
広々とした墓所は、さすが渋沢家。また、渋沢栄一と深いつながりのあった徳川慶喜の墓所も同じく谷中霊園にあります。
ゆかりの地③【静岡県静岡市】
渋沢栄一は、パリ万博から帰国後、およそ1年弱の間、徳川慶喜の要請で静岡に在住し、静岡の商業発展のために尽力していました。
1.宝台院
宝台院は、徳川慶喜が静岡に来て最初に謹慎していた場所です。帰国した渋沢栄一が慶喜と再会した場所としても知られています。
徳川家康の側室、西郷の局の菩提寺として知られ、徳川家と非常に縁の深いお寺です。
2.浮月楼
浮月楼(ふげつろう)は、かつて駿府藩代官役所であり、渋沢栄一は、1869年(明治2年)1月、銀行兼商社的な役割を担う「商法会所」をここに設立しました。その後まもなく徳川慶喜が移り住み、明治21年まで約20年間、居住していました。
慶喜は、作庭師・小川治兵衛が整備した日本庭園で客をもてなし、渋沢栄一は東京に移ってからもたびたび慶喜のもとを訪ねていました。
現在は、民間に払い下げられて、料亭として営業を続けています。残念ながら当時の建物は、静岡大火と戦災にとって消失し、戦後再建築されたものです。
本館には、徳川慶喜と渋沢栄一に関する展示が常設してあります。
3.教覚寺
徳川慶喜が浮月楼に引っ越したことで、渋沢栄一は「商法会所」を「常平倉」と改名し、ここ教覚寺に場所を移設しました。
さらに、妻の千代と長女の歌子を血洗島から呼び寄せ、上京するまでしばらくの間、家族三人で居住していました。
松江山教覚寺は浄土真宗本願寺派の寺院であり、鎌倉時代、親鸞聖人の弟子だった光信房が自宅(清水市)を道場としたのが起源です。1616年(元和2年)、徳川家康の家臣・松下常慶の屋敷を引き継く形で、現在の場所に移転しました。
渋沢栄一のご当地を訪れ、その生涯を振り返る!
一度ゆっくり渋沢栄一ゆかりの地を散策し、その生涯と功績を振り返ってみませんか?
また違った視点から、ドラマ『青天を衝け』を鑑賞できるはずです。
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