2021年2月から12月まで放送された第60作目のNHK大河ドラマ『青天を衝け』。
幕末から明治、さらに大正、昭和初めにかけて活躍し、「日本資本主義の父」とも呼ばれた渋沢栄一の生涯を描きます。
本記事では、渋沢栄一本人ではなく、彼を取りまく人々にスポットライトをあて、家族や親族、それ以外の関係にわけ、それぞれの人物像をわかりやすくご紹介したいと思います。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一とは?
渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で、豪農一家の長男として生まれました。
青年時代は、尊王攘夷運動に傾倒しましたが、のちに一橋慶喜に仕えるようになります。パリ万国博覧会の使節団として渡欧し、帰国後は、明治新政府で短期間に複数の重要な改革に取り組みました。
それからは実業界に身を投じ、文字通り「日本資本主義の父」と呼ばれるにふさわしい数々の偉業を成し遂げたことは言うまでもありません。
渋沢栄一本人については、下記の関連記事に詳しくまとめてあります。人物紹介のみならず、ドラマ『青天を衝け』を楽しむ上で役立つさまざまなトリビア情報も交えています。
渋沢栄一の家族・親族【父・母・妻・子・従兄】と家系図(人物相関図)
父:渋沢市郎右衛門(演/小林薫)
血洗島に十数軒あった渋沢家の中、宗家(中の家)の当主だったのが栄一の父・市郎右衛門(いちろうえもん)です。しかし実は跡取り息子ではなく、宗家より裕福で成功していた分家(東の家)・二代目渋沢宗助の三男から宗家に養子となったのです。渋沢家は藍玉の製造から販売、養蚕など幅広く手掛ける豪農で、苗字帯刀も許された地元の名家でした。
市郎右衛門は、栄一が渡仏中、田畑を売ってでも不足する滞在資金を送ろうとするなど、栄一を生涯応援し続けました。
栄一が、明治新政府で貨幣改革に取り組んでいたさなか、明治4年(1871年)11月22日に死去。栄一は父危篤の知らせをうけ、慌てて帰省してその最期を看取りました。
母:ゑい(演/和久井映見)
母のゑい(栄)について詳しく記した資料は極端に少ないものの、非常に慈悲深い人物で、どんな人に対しても分け隔てなく平等に接することができる女性だったことが、栄一の自伝などに記されています。
市郎右衛門との間に多くの子をもうけましたが、早死にする子も多く、残ったのは栄一と姉・なか、妹・ていの3人だけでした。
従兄:渋沢喜作(演/高良健吾)
栄一の父の兄・文左衛門の長男が喜作です。栄一より2歳上で、両家とも男の子どもは一人だったため兄弟のように育ち、生涯を通して深く関わる間柄になりました。
ともに尊王攘夷運動に傾倒した後、ひょんなきっかけから一橋慶喜に仕えるようになるのも同じです。しかし、栄一が渡仏したの機に、別の道を歩むことになります。
鳥羽伏見の戦いで軍目付を務めるなど、慶喜のもとで大いに出世し、栄一が帰国した際には、榎本武揚率いる幕府軍に加わり函館にいました。なんとか生き延びて釈放されると、栄一のコネで大蔵省入りし、1年間のヨーロッパ視察も経験しています。
帰国後は、すでに大蔵省を辞していた栄一にならって実業界入りし、横浜に養蚕関係の会社を設立。会社は見事に成功しましたが、経営とは別に投機には失敗して多額の借金を背負います。栄一の調停でなんとか切り抜けましたが、事実上の隠居状態に追い込まれました。
晩年には、東京商品取引所の理事を務めていますが、それも栄一の計らいによる名誉職であり、その後もたびたび投機に失敗して栄一に迷惑をかけたあげく、明治45年(1912年)に74歳で死去しています。
従兄:尾高惇忠(演/田辺誠一)
惇忠(あつただ)の母・やへと栄一の父・市郎右衛門が姉弟にあたります。父は尾高勝五郎、弟が長七郎と平九郎で、妹がのちに栄一の妻となる千代です。
漢籍など学問に秀でており、自分より十歳若い栄一や喜作の師となってさまざまなことを教えました。「栄一」という名の命名者でもあります。
徳川斉昭の水戸学を学び崇拝していたせいで、弟子である栄一と喜作も尊王攘夷運動に傾いたと言われています。
幕府軍の要職についた喜作に請われ、軍にも関わったほか、栄一が実業界で成功したのちは、その計らいで富岡国立模範工場(のちの富岡製糸場)の初代工場長も務めました。
明治34年(1901年)に70歳で死去。深谷市にある尾高惇忠の生家は現存し、一般公開されています。
従兄:尾高長七郎(演/満島真之介)
惇忠の弟として、栄一や喜作と行動をともにし、尊王攘夷運動に取り組むものの、栄一らが高崎城を乗っ取るという過激な襲撃計画をたてると、それには反対し、中止させました。京都で見聞したことから、行動の無謀さにいち早く気づいたためでした。
その後、誤って通行人を切りつけたとされ、投獄されます。
慶喜の家臣となった栄一が釈放のため苦心しましたが叶わず、維新後にようやく出獄してすぐ、明治元年(1868年)に若くして病死。投獄により心を患い、自害したとの説もあります。
従弟:尾高平九郎(演/岡田健史)
尾高家の末っ子ですが、栄一の渡欧に際し、当時の慣例によって見立養子(栄一が万が一のときを考え、渋沢家の相続人に指定)となりました。
幕府軍に参加し、戦時のさなかに自決しています。享年22歳。栄一は、自分の訪欧が平九郎の人生を狂わせたと考え、ひどく衝撃をうけたと言われています。
妻:渋沢千代(演/橋本愛)
従妹であり幼なじみでもあった尾高千代は、18歳のとき、19歳の栄一に嫁ぎました。早い結婚だったのは、栄一が天下国家の情勢に熱中するようになったのを憂慮した市郎右衛門が、早く安定させようとしたためだと言われています。
しかし、栄一は家に落ち着くことなく、その後、一橋家仕官やフランス渡航などあって、丸5年近く2人は顔を合わせていなかったようです。
千代は、栄一が一橋家に仕える前年に長女の歌子を産んでいます。子どもたちに対しては厳しくも愛情深く接し、聡明で優れた鑑識眼の持ち主でした。栄一がこれほどの業績を残しえたのも、千代がそれにふさわしい強い女性であったからだとも言われています。
栄一はフランスから帰国後、静岡に千代と歌子を呼び、それ以後は東京に引っ越しても生活をともにしていました。
明治15年(1882年)、前日に発症したコレラにより41歳で死去しました。長女の歌子はすでに嫁いでいましたが、次女・琴子は12歳、長男・篤二はまだ10歳でした。(ちなみに琴子の翌年に三女の糸子を産んでいますが夭折。)
長女:渋沢歌子(演/小野莉奈)
渋沢うたこと歌子は、文久3年8月24日(1863年10月6日)、栄一・千代夫妻の長女として誕生しました。
明治15年(1882年)、旧宇和島藩士族の穂積陳重と結婚し、三男三女をもうけました。穂積陳重は男爵として法学者の道に進んだ一方、歌子も大日本赤十字社や愛国婦人会の活動に尽力しました。
昭和7年(1932年)1月31日、肺炎により死去。歌人として複数の歌集も発表し、また母の千代同様、良妻賢母で知られています。
二女:渋沢琴子(演/池田朱那)
1870年に二女として生まれた琴子は、17歳のときに大蔵官僚の阪谷芳郎と結婚しました。
夫の芳郎はその後、大蔵大臣や東京市長を務め、子爵となったほか、琴子も 慈恵医院婦人会で慈善活動に取り組み、総裁に就任していた皇后から上野慈恵病院常置幹事に任命されました。
二男五女をもうけ、1939年に死去しています。
次男:渋沢篤二(演/泉澤祐希)
栄一と千代は、歌子の前に、長男の市太郎をもうけていますが夭折。次男、跡取りとして、1872年11月16日に生まれたのが篤二です。
1895年に橋本実梁伯爵の娘である敦子と結婚し、翌年には長男の敬三をもうけました。栄一が基礎を創り上げた渋沢倉庫株式会社の初代取締役会長を務めていましたが、1913年、篤二の廃嫡と、同時に会長職も退任しています。
表向きは病気が理由と報じられたりもしましたが、そこにはさまざまな背景があったと言われています。一つは1911年に芸者の玉蝶との放蕩がスキャンダルとして表面化したこと。また、篤二は実業家というより芸術家肌であり、将来を危惧した栄一が渋沢家の跡目争いを事前に防ぐために講じた策だとも言われています。
長男の敬三が嫡孫となり、渋沢家の跡取りに指名されました。栄一が死去した翌年の1932年10月6日、篤二も他界しています。
存命している子孫の方々については、下記の記事で紹介しています。
後妻:渋沢兼子(演/大島優子)
千代を亡くした栄一がほどなくして再婚したのが、没落した豪商である伊藤八兵衛の娘・伊藤兼子でした。(再婚した年は、千代死去の翌年とも3年後とも諸説あるのは、兼子が当初単なる妾の立場として家入りしたからだとも言われています。)
兼子は、明治維新後に家業が傾いたせいで婿養子だった前夫と離縁し、芸妓として生きていたときに栄一と知り合いました。
この二人の間にうまれたのが、武之助、正雄、愛子、秀雄の3男1女。武之助の前に敬三郎、さらに秀雄のあとには忠雄が産まれていますが、いずれも夭折しています。
栄一の深川の邸宅が実は、かつて兼子が住んでいて手放した屋敷だったというエピソードが一部で伝えられていますが、事実ではないという説が大勢です。
栄一より数年長く生き、昭和9年(1934年)に死去しました。
妾:大内くに(演/仁村紗和)
栄一には生涯を通じて複数の妾がおり、複数の非嫡出子をもうけました。
日本に帰国後、京都で知り合った幕府の元女官である大内くにとの間にはふみ(文子)、てる(照子)という二人の女子をもうけ、くには栄一の深川の本宅で千代と同居していました。
兼子と再婚してからも栄一の放蕩は変わらず、自宅に妻妾を同居させたり、本郷真砂町と日本橋浜町に妾を囲ったりしていました。
ふみ、てるを含め、少なくとも4人を正式に認知したと言われています。
ちなみに、のちの第一銀行頭取となる長谷川重三郎は、栄一が68歳とのときに愛人との間にもうけた子であり、老いてなお現役でした。
※渋沢家家法とは?
こうした2度の結婚と、複雑な嫡子・非嫡出子の関係から、栄一は明治24年(1891年)、みずから「渋沢家家法」を制定します。骨肉の争いを事前に防ぐためでした。
その中で、「渋沢家同族」として下記の11人を指名しています。
・栄一と兼子
・栄一と千代の子である、篤二、歌子とその配偶者の穂積陳重、琴子とその配偶者の阪谷芳郎
・栄一と兼子との子である、武之助、正雄、愛子、秀雄
庶子のふみやてるはじめ、栄一が妾に産ませた子は全員除外されています。
上述したとおり、渋沢家宗家跡取りは長男・篤二のはずでしたが、栄一は廃嫡を決め、篤二の長男・敬三を嫡孫と決めました。1915年には、渋沢同族会を渋沢同族株式会社に改組し、敬三が社長に就任しています。
渋沢栄一を取り巻く親族以外の重要人物
渋沢栄一の生涯と同時に、激動の幕末という時代そのものが平行して描かれるため、ドラマにはさまざまな人物が登場しますが、全員が必ずしも渋沢栄一と直接関わっていたわけでありません。
渋沢栄一が慶喜に仕えていた時代、新政府時代、その後の実業家時代を紐解く上で、カギとなりそうな重要人物を15人ご紹介しましょう。
ドラマには登場しなかった人物もいますが、渋沢栄一と直接関わり、その業績を語る上でははずせない重要人物たちです。
1.一橋(徳川)慶喜(演/草なぎ剛)
一橋慶喜の家臣・平岡円四郎に見初められ、栄一は喜作とともに仕官することになります。その後、慶喜は、徳川家茂死去にともない、第15代将軍になりました。
大政奉還後、謹慎の身となった慶喜は、フランスから帰国した栄一に静岡藩の要職についてもらうつもりでしたが、栄一は民間の道を選びます。それは今後間違いなく衰退していくであろう徳川家を経済的に支えていくという忠義の裏返しでもありました。
栄一は、明治新政府を離れ、実業界に入っても、出張のおりなどたびたび静岡の慶喜を訪ねていたといいます。引退後は、慶喜の名誉を回復する目的で伝記『徳川慶喜公伝』の執筆に心血を注ぎました。
大正2年(1913年)11月22日に慶喜が死去した際、葬儀で葬儀委員長を務めたのは栄一です。2人の墓は同じ谷中霊園にあります。
2.平岡円四郎(演:堤真一)
上記の通り、一橋慶喜の小姓で、栄一の能力をいち早く見抜いた人物でもあります。
慶喜の信頼を得て要職につき、公武合体を推し進めていましたが、元治元年(1864年)、43歳の若さで攘夷派の水戸藩士によって暗殺されました。
ドラマでは、木村佳乃演じる妻やすとの仲睦まじい関係が描かれていますが、実は、円四郎の妻に関する詳しい資料は残っていません。一説には、夫婦の間に娘が2人おり、その子孫と渋沢家は今も交流を続けているという話もあります。
3.徳川昭武(演:板垣李光人)
一橋慶喜の弟で、パリ万博に際し、名代として派遣されたのが当時まだ14歳の徳川昭武でした。随行した栄一は会計係として、昭武の身の回りの世話も担いました。
昭武はフランスから帰国した翌年、水戸徳川家を相続し、最後の藩主となっています。
明治43年(1910年)、58歳で死去しています。
4.五代友厚(演/ディーン・フジオカ)
パリ万博で幕府側を出し抜き、薩摩藩のため動いていたのが、イギリスに留学していた五代友厚でした。
やがて、「西の五代、東の渋沢」と称されるほどの、一大実業家となって日本経済を支えます。
5.フリュリ・エラール(演/グレッグ・デール)
フランスの銀行家。栄一がパリ万博のため滞在していたおり、この人物からヨーロッパの近代的な銀行システムや経済を学びました。
その後、栄一が日本の近代化を推し進める上で、最も多大な影響を与えた人物だと言えます。
6.モンブラン伯爵(演/ジェフリー・ロウ)
薩摩藩と密約し、秘密裡に倒幕運動に加担していたフランス人がモンブラン伯爵です。パリ万博における日本の展示が、幕府より薩摩の方が目立つよう仕向け、暗躍していた張本人でした。
男色家で、日本で見つけた斎藤健次郎を、通訳兼下男として常に同伴させていました。
7.大隈重信(演/大倉孝二)
慶喜のもとを離れ、静岡で「商法会所」を設立していた栄一を説得し、明治新政府に仕官させたのが当時、大蔵省の実質的トップだった大隈重信でした。
しかしやがて、井上馨と栄一の立場を受け入れず、2人が連名で大蔵省を去るきっかけの一つとなってしまいます。その後、栄一が実業界で活躍するようになっても、金融政策などをめぐって、大隈とは対立する立場にありました。
8.大久保利通(演/石丸幹二)
言うまでもなく、明治維新の三傑の一人が大久保利通であり、大蔵省においては井上馨の上官でした。
栄一とは激しく意見が対立し、栄一が政府を去るきっかけになった人物の一人です。
9.西郷隆盛(演/博多華丸)
栄一が尊王攘夷の志士として京都にいたころ出会ったのが、西郷隆盛でした。西郷は栄一のものの考え方を高く評価し、栄一が一橋家につかえるようになっても、交流が続きました。
栄一は、大久保利通を嫌っていた一方、西郷については高く評価していたと言われています。
10.井上馨(演/福士誠治)
民部・大蔵省間に設けられた改正局で、主に貨幣制度の改革に携わっていたのが、長州藩出身の井上馨と伊藤博文です。
栄一は井上馨の直属の部下として、廃藩置県にまつわる経済的混乱を防ぐなど、二人三脚で貨幣制度の改革を行いました。
井上の辞任にあわせ、栄一も連名で辞表を提出するに至ります。井上はこの後、再び政権に復帰し、伊藤博文内閣で外務大臣などを歴任しました。
11.前島密(演/三浦誠己)
改正局において、国家のあらゆる組織やシステムの改正にあたる中、栄一が静岡藩から呼び寄せた、言わば旧幕臣の同志の一人が前島密でした。
栄一と協力し、鉄道網の整備、そして郵便制度改革の中心的人物として尽力しました。
12.岩崎弥太郎(演/中村芝翫)
日本の海運を独占していた三菱の岩崎弥太郎は、栄一と俗にいう「三菱汽船会社VS共同運輸会社」の死闘を繰り広げた人物です。
2人は資本主義自体に対する考え方が異なっていたこともあって対立。明治18年(1885年)に岩崎が死去しても決着がつかず、最後は政府の裁定によって両社が合併して「日本郵船会社」が誕生するまで続きました。
13.小村寿太郎(登場せず)
桂内閣の外務大臣が小村寿太郎です。明治40年(1907年)、アメリカにおいて激化する排日運動を危惧し、栄一に日米間の財界におけるパイプ役を依頼したのが小村でした。
よって、栄一が晩年、老体を酷使して積極的に取り組んだ民間外交とは、国際親善などという甘いものではなく、事実上のロビー外交にも近いものだったのです。
14.孫文(登場せず)
栄一は、日米間の民間外交のみならず、日中間の関係改善にも尽力していました。
革命政権を樹立し、大正2年(1913年)に来日した孫文は、かねてから尊敬していた栄一のもとを訪ね、今後のあるべき中国について助言を乞いました。
栄一は、孫文に政治より経済面に力を注ぐべきだと主張し、日中合弁会社の設立を提案しました。
15.シドニー・ギューリック(登場せず)
排日移民法が成立し、日米関係が悪化の一途をたどる中、アメリカ側で関係改善のため尽力したのがキリスト教宣教師だったギューリックでした。
「世界児童親善会」を立ち上げ、親善人形をアメリカの児童から日本の児童に送り、交流を深めることを企画。日本側でそれに応じたのが渋沢でした。
「ドール・プロジェクト」と呼ばれ、日本からは58体の市松人形が送られました。
急ぎ足で終わった?大河ドラマ『青天を衝け』
『青天を衝け』は、新型コロナウイルスや東京オリンピック・パラリンピック開催の影響を受け、異例の短さで最終回を迎えました。
そのせいか、終盤はかなり急ぎ足で終わったような印象をうけます。
上記でご紹介した15人のうち、渋沢栄一の晩年を語る上ではずせない重要人物3人が登場しないまま終わったのも、そのあたりと関係がありそうです。
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