『どうする家康』を解説!人物相関図と政変・戦乱の簡単年表

徳川家康 年表・相関図 ドラマ

『どうする家康』は、2023年放送のNHK大河ドラマ第62作目の作品です。タイトルそのまま、徳川家康の生涯を新しい視点で描く物語であり、松本潤が主演を務めました。

さすが日本史上、最も有名な人物の一人とあって、多くの文献や資料が存在している上、また学説もさまざまであるため、調べると膨大な文字量に目を通すことになります。

そこで本記事では、ドラマの展開をよりわかりやすく理解する目的で、登場する諸大名の人物相関図、また家康が関係する戦乱・政変などの出来事・事件を時系列に年表形式で解説したいと思います。

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『どうする家康』で描かれる時代は?人物相関図

本ドラマでは、主人公の幼年時代を子役が演じることなく、松本潤が13歳を演じ、人形遊びや鬼ごっこをするシーンが描かれました。

ちなみに名前は、松平竹千代→元信→元康→家康→徳川家康へと変遷します。

■徳川家康を巡る諸大名の人物相関図

ドラマに登場した人物を中心に、しかも重要な関係性のみに限っています。

和睦のための政略結婚が当たり前だった時代ですから、主だった婚姻関係を明記するだけで、このようにかなり複雑な相関図になってしまいます。



徳川家康が関わる政変・戦乱・出来事の簡単年表

1542年(天文11年):松平広忠の嫡男として誕生

天文11年12月26日(1542年1月31日)、岡崎城主・松平広忠と、緒川城主・水野忠政の娘だった於大(後の伝通院)の間の嫡男として誕生しました。幼名は竹千代です。(1歳)

3歳の頃、水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が織田側と組んだことで、今川氏に庇護されていた広忠は、於大と離縁に至りました。

1547年(天文16年):織田の人質となる

今川への忠誠の証として幼い竹千代が人質として駿府に送られることになります。

ところが、護送中、義母の父・戸田康光の裏切りによって、6歳の竹千代は逆に尾張の織田側の人質となってしまいます。約2年の間、尾張で人質生活を送りましたが、近年、実は広忠がすでにこの時点で織田に降伏しており、そのため意図的に差し出されたという説もあります。

1549年(天文18年):父・広忠の死去、今川の人質となる

父の広忠が死去(死因は暗殺とも病死とも諸説あり)。織田信秀(信長の父)と今川義元の間で人質交換がなされ、竹千代は駿府に送られて今川氏の人質となります。(8歳)

広忠の死により、竹千代は松平家の当主となっていましたが、城主不在の岡崎城は今川氏が派遣した城代によって支配されていました。

天文24年には今川氏のもとで元服し、元信、後に元康を名乗っています。

※ドラマ『どうする家康』の第一回はこのあたりからスタートします。

1557年(弘治3年):築山殿(瀬名)と結婚

今川義元の臣下であった関口氏純と、義元の親族(諸説あり)だった母の間に生まれた築山殿(瀬名)と結婚しました。(16歳)

1559年(永禄2年)には長男の信康(幼名は同じく竹千代)、また翌年の「桶狭間の戦い」直後には長女の亀姫が生まれています。

1560年(永禄3年):桶狭間の戦い

尾張国の桶狭間において、ついに織田信長軍と今川義元軍が衝突します。信長が本陣を奇襲し、義元を討ち取って勝利に終わりました。

19歳だった元康も今川軍として出陣し、大高城を守っていましたが、義元戦死の報を受けていったん菩提寺だった大樹寺に入ったのち、岡崎城に帰還しました。

この後、元康は今川氏から独立の道を選ぶことになります。その理由や経緯については諸説ありますが、1561年(永禄4年)には、今川の拠点だった東三河の牛久保城を攻撃するなど離反の意志を示し、義元の後を継いだ今川氏真を激怒させました。

1562年(永禄5年):清州同盟を結ぶ

織田氏についていた伯父・水野信元の仲介もあり、元康は信長と軍事同盟を結びます。信長の居城だった清洲城で締結されたことから「清州同盟」とも呼ばれています。(21歳)

翌年には、同盟の証として、長男の信康と信長の長女である五徳(徳姫)の婚約が取り交わされます。さらに自身の名を、家康へと改名。今川義元から受け継いだ「元」を外したことで、そのまま今川氏からの完全なる独立を表明するものでもありました。

1563年(永禄6年):三河一向一揆

翌1564年まで半年ほどに渡って勃発した一向一揆であり、本證寺の空誓を中心とする浄土真宗の本願寺門徒と、家康の間で激しい戦いが繰り広げられました。

家康の家臣団も、門徒側と家康側に分裂し、俗に「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」と並び、家康三大危機の一つに数えられています。馬頭原合戦の勝利により、家康優位のまま和議に至りました。

1566年(永禄9年):三河国を事実上統一、松平から徳川に改姓

今川側との戦いの末、東三河と奥三河を平定し、この頃までには三河国を事実上統一しました。朝廷から三河守に任命され、同じ頃、松平から徳川に改姓しています。

またこの翌年には、嫡男の信康と徳姫がともに10歳にも満たない若さにして婚姻を結んでいます。



1568年(永禄11年):武田信玄による駿河侵攻

武田信玄が今川領の駿河に侵攻。家康は、大井川東側の駿河国を武田領、西側の遠江国を徳川領と分割する取り決めを結びましたが、翌年、それを破って遠江国に侵攻されてしまいます。

家康は、掛川城の今川氏真を降して和睦。また、北条氏康の協力を得て武田軍を退け、遠江国を支配下に置きました。

1570年(永禄13年/元亀元年):浜松城築城、金ヶ崎の戦い、姉川の戦い

岡崎城を信康に譲り、武田の侵攻に備える意味で遠江国の曳馬城に移ります。改修・周辺の整備などを行い、新たに浜松城として自身の本拠地としました。 (29歳)

同年、織田信長と朝倉義景が戦った「金ヶ崎の戦い」、さらに「姉川の戦い」でも信長軍に援軍し、朝倉義景浅井長政の連合軍を破りました。

1572年(元亀3年):武田の西上作戦、三方ヶ原の戦いで大敗

武田信玄が、遠江国および三河国への同時侵攻を開始します(西上作戦)。

家康は、織田の援軍をなかなか得られないまま、「一言坂の戦い」、続く「二俣城の戦い」で敗戦。ようやく織田軍が派遣され、連合軍として戦った「三方ヶ原の戦い」でも、武田軍に大敗を喫し、多くの大事な家臣を失いました。(31歳)

1573年(元亀4年):武田信玄が病死、長篠城を奪還

武田軍は三河国の野田城も陥落させますが、信玄の病死により撤退を余儀なくされます。西上作戦は中断され、家康は、長篠城を中心とする奥三河を取り戻しました。

しかし、武田の家督を継いだ信玄の四男・勝頼が反撃を開始し、家康との攻防が継続します。

1575年(天正3年):長篠の戦い、織田信長の権力拡大

大軍を率いて長篠城を攻めた武田勝頼に対し、徳川と織田の連合軍が勝利をおさめます。(34歳)

この勝利、他にも一向一揆鎮圧などに成功した信長は、天下獲りに向けいよいよ頭角を現します。かたや家康は、諏訪原城や二俣城を攻略し、三河国を完全に掌握しました。

1579年(天正7年):後の二代将軍・秀忠誕生、正室・築山殿と長男・信康の処刑

側室・愛子(於愛)との間に、後の二代将軍となる三男の秀忠(幼名は長松→竹千代)が誕生します。一方、その数か月後には、信長の命により、家康は、正室の築山殿を家臣に殺させ、嫡男の信康を自害に追い込みました。(38歳)

この背景には諸説ありますが、通説では、徳姫と夫・信康の不和、さらに徳姫と義母である築山殿の確執から、実父の信長に12か条の訴状を送ったことがきっかけだとされています。他にも、築山殿の冤罪説、家康と信康の父子確執説などの説もあります。

1582年(天正10年):甲州征伐、本能寺の変、天正壬午の変

織田信長、そして臣従する徳川家康や北条氏政らが、武田領の甲斐・信濃へ侵攻し、武田勝頼を征伐。これにて武田氏はついに滅亡します。(甲州征伐、あるいは武田征伐)

しかし、その数か月後には「本能寺の変」により、明智光秀に追い詰められた織田信長が自害。堺にいた家康はその報に取り乱すも家臣に説得され、なんとか「伊賀越え」を経て、三河国に戻ります。

一方、武田領から織田領となっていた甲斐国で権力の空白が起き、北条、徳川、上杉景勝の間で所領争いの戦いが勃発します。(天正壬午の変)

結果、家康は、次女の督姫北条氏直に嫁がせて和睦し、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国を有する大名へと勢力を拡大しました。(41歳)

1584年(天正12年):小牧・長久手の戦い

信長の死後、明智光秀を討った羽柴秀吉が台頭。羽柴軍と、信長の次男・信雄率いる織田と徳川の連合軍が、尾張北部の小牧山城・犬山城など各地で戦いを繰り広げました。

徳川軍は羽柴軍の森・池田勢を撃退して勝利し、その後、羽柴側との和議の方向に向かいました。

1586年(天正14年):家康は秀吉に臣従、豊臣政権が誕生

秀吉からの申し出により、家康は秀吉の妹・朝日姫を正室として受け入れます。家康は上洛して大阪城で秀吉と謁見し、正式に臣従を表明するに至りました。(45歳)

秀吉は、正親町天皇から豊臣の姓を賜って太政大臣に就任し、これにて豊臣政権を樹立。家康は、拠点を長らく過ごした遠江国の浜松城から、新たに天守を築城した駿河の駿府城へと移りました。

1590年(天正18年):小田原征伐、江戸城に入城

秀吉と家康は、臣従に応じなかった北条氏を征伐。北条氏政らが切腹し、これにて北条氏は事実上滅亡しました。(小田原征伐)

家康は、秀吉の命により、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から、北条氏の旧領だった武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野・常陸へ移封となります。大幅な加増ではありましたが、それが優遇だったのか冷遇だったのかについては諸説あります。

命令に従った家康は、北条氏の本城だった小田原城ではなく、江戸城を本城とし、入城しました。(49歳)

1592年(文禄元年):秀吉の朝鮮出兵

この前年には、奥州を中心とした一揆鎮圧に貢献した家康ですが、秀吉が命じた朝鮮出兵に関しては、名護屋城から動かず、進軍することはありませんでした。

1597年(慶長2年)の二度目の朝鮮出兵に対しても、家康は同じく渡海していません。(文禄・慶長の役)



1598年(慶長3年):五大老に任命、豊臣秀吉の死去

秀吉は、自身亡き後の後継者・秀頼を補佐してもらうため、五大老・五奉行を設置します。徳川家康ら5人の有力大名が五大老として任にあたりました。

ほどなく、秀吉が62歳で死去(死因は諸説あり)すると、家康は五大老筆頭として次第に実権を掌握するようになります。(57歳)

1600年(慶長5年):関ヶ原の戦い

五奉行の一人であり、家康の台頭に不満を抱いていた石田三成ら西軍と、家康ら東軍が美濃国の関ヶ原でついに衝突します。小早川秀秋の寝返りをきっかけに東軍が大勝し、「天下分け目の戦い」を制しました。

三成は、六条河原で処刑。西軍に加わった諸大名も取り潰しや減封などの処分となり、徳川の実権が事実上確立しました。(59歳)

1603年(慶長8年):征夷大将軍に任命、江戸幕府を開く

後陽成天皇が勅使を派遣し、朝廷の宣旨により、家康を征夷大将軍に任命しました。領地である江戸に幕府を開き、この年から265年続く江戸時代が始まることになります。(62歳)

1605年(慶長10年):秀忠に将軍職を譲り、大御所政治を開始

将軍職を三男・徳川秀忠に譲り、自らは大御所となって駿府城に隠居しつつも、政治的には強い影響力を持ち続けました。(64歳)

1614年(慶長19年):大坂冬の陣

豊臣秀頼は、秀忠より上位の右大臣を任命されており、家康にとっていまだ警戒を要する存在でした。そこで、方広寺鐘銘事件をきっかけに、大坂侵攻を開始します。それは、秀頼が方広寺に納めた梵鐘の銘文の中にあった「国家安康」「君臣豊楽」の2句が、家康に対する呪詛だという言いがかりでした。

大坂城を砲撃し、それに恐れをなした豊臣が申し出た和睦を了承。本丸だけを残し、外堀、さらに約束を裏切って内堀まで埋めてしまいます。(73歳)

1615年(慶長20年):大坂夏の陣、豊臣氏が滅亡

豊臣側が、内堀を掘り返す行動に出たことを戦の準備だととった家康は、再び侵攻を開始します。結果は大勝に終わり、大坂城は落城。秀頼と淀殿は自害し、豊臣氏は滅亡しました。

1615年(元和元年):法制を整備し、江戸幕府存続の礎を築く

朝廷に対しては「禁中並公家諸法度」、諸大名に対しては「武家諸法度」と「一国一城令」を制定。徳川氏による全国支配の礎を築きました。

1616年(元和2年):家康、駿府城にて75歳で死去

家康は、朝廷より、武家としては平清盛に始まる4人目となる太政大臣に任命されます。しかし、それからわずか数週間後、駿府城にて病死しました。死因は諸説ありますは、胃がん説が有力です。(75歳)

遺体は、駿府の久能山(現在の久能山東照宮)に葬られ、一周忌後には、遺言により日光東照宮にも分霊されています。



『どうする家康』で描かれる徳川家康の生涯

享年75歳(満73歳4か月)で死去した徳川家康は、当時としては驚くべき長寿でした。

実際、美食家である一方、健康にはかなり気を使い、さまざまな漢方をすすんで口にしていたようです。それは、天下泰平の徳川の世を築くにあたって、自分が少しでも長生きし、秀忠のためにやっておくべきことが多くあると考えたためだとも言われています。

ドラマの撮影場所・ロケ地情報については、下記の記事をご覧ください。

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