徳川家康のわかりやすい家系図・父母/妻/子【どうする家康】

徳川家康・家系図 ドラマ

松本潤が主人公・徳川家康を演じた、2023年放送のNHK大河ドラマの第62作『どうする家康』。

本記事では、多くの女性を室とし、また多くの子をもうけたことで知られる徳川家康を中心とした複雑な家系図と主要人物を、できるだけわかりやすく紹介したいと思います。

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NHK大河ドラマ第62作『どうする家康』とは?

室町後期の戦国時代から江戸時代初期を舞台に、徳川家康の波乱の生涯を新たな視点で描いたNHK大河ドラマ第62作が『どうする家康』です。

大河ドラマで家康が主人公になったのは、1983年の『徳川家康』、2000年の『葵 徳川三代』に続き3度目。そんな家康の生涯、そしてドラマに登場した家族・親族を中心にした家系図および主要人物を、わかりやすくご紹介します。

※撮影場所・ロケ地については、別の記事にまとめています。

主人公・徳川家康の生涯を簡単ふりかえり

●生い立ちと幼少期

1542年(天文11年)12月26日、岡崎城主松平広忠と緒川城主水野忠政の娘・於大の方(伝通院)の間に、嫡男として生まれました。幼名は竹千代。3歳のときに両親が離縁したうえ、強大な織田氏と今川氏の間の勢力争いに巻き込まれます。

織田に攻められ、駿府の今川の援軍を受ける代わりに、6歳の竹千代が人質になることとなりますが、護送中に織田側に捕らえられ、逆に織田側の人質となってしまいます。2年後、広忠の死去に伴い、人質交換で今川の人質となりました。

今川氏の下で元服して元信、やがて元康を名乗り、1557年(弘治3年)、16歳のとき、今川義元の姪である瀬名と結婚。1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」に出陣するも、今川義元が織田信長に討たれたのを機に、10年を超える今川家の人質から独立するに至りました。

●青年期と信長の時代

1562年(永禄5年)、信長と家康が清洲城で会見して「清洲同盟」を締結し、嫡男の竹千代(のちの信康)と信長の娘である五徳の婚約が決まります。1566年(永禄9年)には三河国を統一し、徳川家康を名乗りました。

「姉川の戦い」に勝利し、本拠地を遠江国に移して浜松城を築城しますが、「三方ヶ原の戦い」では武田信玄に大敗。かたや、信長は1573年(元亀4年)、足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させると、一気に勢力を拡大していきます。

1575年(天正3年)には、「長篠の戦い」において信長と共に武田勝頼に勝利。その後、信長の命により、正室の築山殿(瀬名)と嫡男の信康を死に至らしめることになりましたが、1582年(天正10年)には、「本能寺の変」で信長は暗殺されました。



●秀吉の時代と江戸幕府開府

信長の死後、家臣の秀吉が台頭して家康と対立します。1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」で豊臣側に勝利すると、その後は和睦に向かいます。1586年(天正14年)には、秀吉の妹・朝日姫を妻に迎え、正式な形で秀吉に臣従することとなりました。

居城を駿府城へ、さらに秀吉より関東移封を命ぜられ、江戸城に入城。1598年(慶長3年)には五大老の一人に任命されますが、同年、秀吉が病死します。

家康は五大老の筆頭として力を持ち、1600年(慶長5年)には「関ヶ原の戦い」で石田三成に勝利。1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

●晩年と死去・死因

1605年(慶長10年)、将軍職を三男の秀忠に譲ります。1614年の「大坂冬の陣」、翌年の「大坂夏の陣」でついに豊臣家を滅亡させました。

1616年(元和2年)、鷹狩先で病に倒れ、4月17日、駿府城において75歳(満73歳)で死去しました。死因は、天ぷら食べすぎ説など諸説ありますが、現在は胃がん説が有力です。

墓所は、久能山東照宮の廟所宝塔と、日光東照宮の奥社宝塔の2か所とされています。

徳川家康を中心にした略式家系図・家族(父母/妻/子)紹介

家康には、明らかなだけでも20人の正室・側室がいたとされ、子どもも多くの実子、養子・養女がいます。その中から、本ドラマに登場した人物のみを紹介します。

父:松平広忠/飯田基祐

松平広忠は、三河国の安城松平家4代目当主にして岡崎城主でした。正室である於大の方との間に家康をもうけますが、於大の方の兄・水野信元が織田に与したという理由(他の説もあり)で、家康3歳のときに離縁します。

織田に攻められ、今川の援護を受ける見返りに家康を人質として差し出しますが、そのさなか、1549年(天文18年)、24歳の若さで死去しています。死因は諸説あり、はっきりしていません。

母:於大の方(伝通院)/松嶋菜々子

於大の方(後年の名は伝通院)は、尾張国知多郡の豪族だった水野忠政の娘であり、1541年(天文10年)に松平広忠に嫁ぎました。家康をもうけるものの、上述のとおり、水野家の家督を継いだ兄の信元が織田側についたことでほどなく離縁。1547年(天文16年)には、阿古居城の城主である久松俊勝と再婚し、3男3女をもうけました。

「桶狭間の戦い」を経てその後、織田側と手を結んだ家康は、於大を母として迎え入れ、義理の弟3人を家臣としています。そうした中でも、於大は常に家康と連絡を取り続け、後には徳川家と豊臣家の間に立って動いていたとも言われています。

江戸幕府開府の前年にあたる1602年(慶長7年)、京都の山城伏見城で死去しました。

伯父:水野信元/寺島進

水野忠政の次男で、於大の方の異母兄にあたるのが信元です。父の死に伴い、水野家の家督を継ぐと同時に、織田側につきます。於大の方を織田の有力家臣だった久松長家に嫁がせ、織田の三河侵攻に加勢しました。

その後、清洲同盟では信長と家康の和睦を仲介し、家康の叔父として影響力を保持します。「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」にも参戦しましたが、1576年(天正3年)、武田側に内通したとの理由で、信長の命を受けた家康に暗殺されました。

義父:久松長家/リリー・フランキー

松平広忠と離縁した於大の方が再婚したのが、尾張国知多郡の坂部城城主だった久松長家でした。

「桶狭間の戦い」の後、家康の臣下となりますが、信長より謀反を疑われた義兄にあたる水野信元(於大の兄)が暗殺されたことで、家康のもとを離れて隠退。1587年(天正15年)、61歳で死去しました。

正室:瀬名(築山殿)/有村架純

今川義元の臣下であった関口氏純と、義元の親族だった母の間に生まれ、生年は不詳。父の別名が瀬名義広であることからドラマでは「瀬名」とされることが多いようですが、それが正式な名である史実はなく、一般には「築山殿」の名で知られています。1557年(弘治3年)、今川家の人質だった家康に嫁ぎ、嫡男の松平信康と長女の亀姫をもうけました。

「桶狭間の戦い」の後、家康は織田と同盟を結びます。家康の家臣だった石川数正の交渉による人質交換が成功し、瀬名と2人の子も岡崎城に移りました。1567年(永禄10年)には、9歳の信康が信長の長女である徳姫と結婚。家康が浜松城に移ったのちも、信康らとともに岡崎城に残り続けました。

1579年(天正7年)、徳姫は、築山殿が武田家と内通していることなど12もの訴状を父である信長に送ります。これにより、信長から妻の処刑を命じられた家康は、家臣に殺害させる決断に至りました。ただこの経緯については諸説あります。

築山殿は同年8月29日、遠江国敷知郡小藪村で、岡本時仲と野中重政によって自害をせまられますが、それを拒んだことで斬首されています。

義父:関口氏純/渡部篤郎

築山殿の父である関口氏純(親永) は、今川関口家の当主にして今川氏の有力家臣でした。「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれた後も、その嫡男である氏真を支え続けました。

娘婿である家康が織田と同盟を結んだことから、1562年(永禄5年)、氏真の怒りを買って妻とともに自害したと言われていますが、没年には諸説あります。

義母:巴/真矢ミキ

築山殿の母ですが、実名は不詳であり、「巴」はドラマ上の仮名です。出自には、今川義元の妹とも、義元の妾から養妹になった女性とも諸説あります。

上述の通り、夫とともに自害しています。



側室:お葉(西郡局)/北香那

家康の側室の一人が西郡局であり、「お葉(およう)」の名前でドラマに登場します。柏原城主だった鵜殿長忠の娘であり、側室となって1565年(永禄8年)に、家康の次女にあたる督姫をもうけました。

1590年(天正18年)に、家康が江戸城入りすると、それに従って入城。1606年(慶長11年)、伏見城にて死去し、蓮葉院の法名を得ています。

側室:お愛(西郷局)/広瀬アリス

江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠をもうけた側室が、西郷局、通称・お愛の方です。父は戸塚忠春、母は三河西郷氏の出であり、叔父である西郷清員の養女となって家康の側室に迎えられました。

秀忠のほか忠吉をもうけ、大変な美人であったことから家康の寵愛を受けたと言われていますが、1589年(天正17年)に38歳で死去しています。法名は宝台院。死因は不詳ですが、殺害された家康の正室・築山殿に仕えていた侍女が毒殺したとの説もあります。

側室:お万/松井玲奈

家康の側室として、紀州徳川家の家祖となる頼宣、水戸徳川家の家祖となる頼房をもうけたのがお万こと養珠院です。出自については諸説あり、1593年(文禄2年)、三島の江川英長の養女として家康の側室となりました。

1602年(慶長7年)に頼宣、翌年に頼房をもうけています。浄土宗だった家康とは違い、日蓮宗に帰依していたお万は、家康の死後、さらに信仰を深めたと言われています。1653年(承応2年)に死去すると、墓所はともに日蓮宗である本遠寺(山梨県)と妙法華寺(静岡県三島市)にもうけられました。

側室:阿茶/松井玲奈

阿茶局(雲光院)の父は、甲斐武田家の家臣であった飯田直政。1579年(天正7年)に家康の側室となり、亡くなった西郷局の代わりとなって秀忠と松平忠吉を養育したと言われています。

非常に才知に長けた女性と知られ、家康の信も厚く、さまざまな諸事を任されていました。大坂冬の陣では、自ら和議の成立に尽力したと言われています。1637年(寛永14年)、83歳で死去しました。

長男:松平(徳川)信康/細田佳央太

1559年(永禄2年)3月6日、家康と正室・築山殿との間にうまれた嫡男が信康(幼名は家康と同じ竹千代)です。

清洲同盟が成立したことにより、1567年(永禄10年)、9歳同士の若さで信長の娘である徳姫と結婚しました。1570年(元亀元年)には、正式な岡崎城主となっています。

「長篠の戦い」では17歳で大将を務めるなどいくつかの軍功をあげたものの、上述の通り、姑にあたる築山殿、また夫・信康との不仲が言われた徳姫の訴状により、信長の命に家康が応じる形で、1579年(天正7年)8月3日、二俣城で切腹しています。享年21歳。実は、家康と信康の父子不仲が原因との説もあります。

義娘:五徳(徳姫)/久保史緒里

1559年(永禄2年)10月12日、織田信長の長女として生まれ、上記の通り、清州同盟の証として、9歳にして信康に嫁ぎました。正式名が五徳で、嫁入り後は岡崎殿と呼ばれました。

1576年に登久姫、翌年に熊姫をもうけましたがなかなか嫡男にめぐまれなかったことが、姑である築山殿との不和、夫婦の不仲の原因になったと言われています。自身が送った十二か条の訴状がきっかけとなって夫が自害すると、岡崎城を出て安土に戻りました。

「本能寺の変」の後は、秀吉の配下となってさまざまな場所を転々とし、1636年(寛永13年)に死去しました。

長女:亀姫/當真あみ

1560年(永禄3年)6月4日、家康と築山殿の間の長女、信康の妹として生まれたのが亀姫です。武田氏を牽制する目的と、「長篠の戦い」に対する褒美として、新城城主の奥平信昌に嫁ぎました。

信昌は側室をもたず、亀姫との間に4男1女をもうけています。1625年(寛永2年)に死去しました。



魅力的な人物が多数登場する時代を描く『どうする家康』

歴史好きから人気の高い、戦国時代を描くドラマであり、ご紹介した親族・家族に留まらず、多数の個性あふれる人物が登場!

徳川四天王や徳川十六神将などと呼ばれる、家康の家臣団については、以下の記事をご覧ください。

また、諸大名との人物相関図や出来事年表については、以下の記事でわかりやすく簡潔にまとめてあります。

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