『らんまん』モデルとなった17の実在人物/場所【その後/実話】

らんまん 実在人物 ドラマ

2023年4月から9月にかけて放送された、NHK連続テレビ小説108作目『らんまん』。神木隆之介が演じる主人公・槙野万太郎のモデルが、幕末から昭和まで生き、「日本の植物学の父」として知られる植物学者の牧野富太郎です。

ドラマでは、必ずしも事実とは言えない、オリジナルのストーリーが展開しますが、多くの登場人物に、モデルとなっている実在の人物がいます。

ここでは、主人公の牧野富太郎以外、それら実在の人物や場所について、詳しくご紹介したいと思います。

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朝ドラ『らんまん』はどこまでが実話?

朝ドラ第108作目『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルはもちろん、植物学者の牧野富太郎であり、彼の生涯を描くドラマですが、物語の展開や設定は必ずしも実話に沿ったものではありません。

NHK公式ホームページに「植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー」と記されているのはそのためです。

とはいえ、多くの登場人物には、モデルとなった実在の人物がいます。

牧野富太郎の生涯については、別の記事に詳しく紹介していますので、ここでは、その他の実在人物について触れたいと思います。

ドラマに登場する架空の人物

富太郎は東京の長屋に暮らした事実もなく、ドラマに登場する十徳長屋の住民は全員、架空の人物である可能性が高いでしょう。

宮野真守が演じる、高知の自由民権運動家・早川逸馬もモデルとなっている特定の人物は見当たりません。

『らんまん』に登場する実在の人物

①祖母・槙野タキ(演:松坂慶子)→牧野浪子

「牧野家」は、代々、雑貨商と酒造業「岸屋」をいとなむ豪商で、藩の御用をつとめ、苗字帯刀も許された名家でした。

富太郎が3歳のときに父・佐平、5歳のときに母・久寿を亡くします。続く6歳のときには、「岸屋」の大旦那だった祖父・小左衛門も病死し、その後、家業を切り回し、病弱だった富太郎を育て上げたのが祖母の浪子でした。

浪子は、高岡村(現在の土佐市)に生まれ、美人で非常に聡明かつ気丈な女性であったようです。和歌や書をたしなみ、藩主の家にも出入りするような女性でした。

富太郎の成人後は、従妹の猶と結婚させ、家業を継いでもらうことを願っていたようですが、結局、研究を続けたいという意思を受け入れました。明治20年、富太郎が25歳のとき、77歳で死去しています。

②母・槙野ヒサ(演:広末涼子)→牧野久寿

牧野久寿は、「岸屋」の家付き娘で、夫(富太郎の父)の佐平は、他家から入った婿養子でした。つまり久寿は、浪子の実の娘にあたりますが、ドラマでは嫁に入ったという設定のようです。

上述のとおり、慶応3年、富太郎が5歳のとき、若くして亡くなりました。

③姉・槙野綾(演:佐久間由衣)→牧野猶

富太郎は一人っ子であり、姉として登場した綾は架空の人物かと思われていました。ところが、4月25日の放送で、実は綾がいとこだったという衝撃の事実が発覚。ということで、綾のモデルは、いとこの牧野猶(なお)であることが明白になりました。

祖母の強いすすめで、富太郎は、猶と結婚していた事実もあります。後述するように、そののち、富太郎は、「岸屋」の全財産を、番頭の井上和之助と従妹の猶に譲渡。「岸屋」を閉めた後は、猶も東京に暮らし、そこで晩年を送りました。

④妻・西村寿恵子(演:浜辺美波)→小沢壽衛(子)

壽衛は、元彦根藩主井伊家の家臣で、その後は陸軍営繕部に勤めていた小沢一政を父に持ち、かつては現在の千代田区九段あたりにお堀の土手まで続く広大な邸宅に暮らしていました。

ところが父の死後、家は人手に渡って没落します。京都生まれの気丈な母が、菓子屋「小沢菓子店」を開業して子供たちを育てていました。お嬢様育ちの壽衛は次女であり、後述するように印刷屋の大田の仲介で、富太郎と結婚しました。

壽衛は、夫の研究資金と子沢山の家計を支えるため、心血を注ぎます。菓子屋を開いたり、さらにその後、体面から別居までして料理屋「いまむら」を開業したりして、金策に駆け回りました。それまで借家を転々としていましたが、大正15年、最後は店を売ったお金で、豊島郡大泉字土支田(現在の練馬区東大泉)に、広大な雑木林を有する自宅を建築させています。

2人は13人の子どもをもうけましたが、夭折する子も多く、成人したのは7人(一説には6人)だけでした。壽衛は、昭和3年、病名不明により55歳で死去。悪性腫瘍だったとも言われていますが、富太郎の自伝によると、病名不明だったため、研究のため大学に臓器提供がされたようです。

⑤竹雄(演:志尊淳)→佐枝熊吉

万太郎のお目付け役となる番頭の息子・竹雄にも実在のモデルがいます。ドラマの設定通り、「岸屋」で番頭をしていた佐枝竹蔵の息子で、幼い頃から自身も「岸屋」に奉公に出ていた佐枝熊吉です。

明治14年、富太郎が初上京する際には、会計係とともに熊吉が同行しました。

⑥池田蘭光(演: 寺脇康文)→伊藤蘭林

佐川の目細谷にあった寺子屋・伊藤塾の塾頭が伊藤蘭林であり、富太郎も士族の子弟に交じって通っていました。博学なうえ、特に漢学の大家として知られ、同時に佐川藩深尾家の郷校として開校された「名教館」の学頭としても指導にあたっていました。

富太郎はそのまま「名教館」に学び、植物学を極める上での学問の基礎を伊藤蘭林のもとで築いたと言われています。

蘭林は、明治28年に80歳で死去しましたが、その後も長らく「蘭林会」という町の奨学育英機関が残っていました。

⑦里中芳生(演:いとうせいこう)→田中芳男

万太郎が初めて上京した際に会いにいく、憧れの植物学者・里中芳生のモデルは、「日本の博物館の父」として知られる田中芳男がモデルです。

田中芳男は、蘭学・医学・本草学を学び、パリ万国博覧会出張などを経て、明治4年より博物局の天産部長として勤務していました。日本初の博覧会を開いたほか、東京国立博物館や上野動物園の設立に尽力。元老院議官や貴族院議員などを歴任し、男爵の称号を授けられています。

訪ねてきた富太郎少年を快く受け入れ、さまざまな知識を与えてくれたことで、学問としての植物学研究に開眼するきっかけとなりました。

田中芳男は、大正5年、77歳で死去しています。



⑧野田基善(演:田辺誠一)→小野職愨

田辺誠一演じる野田基善のモデルも、博物局において、田中芳男の下で働いていた植物学者の小野職愨(もとよし)がモデルです。

富太郎少年が、資料として耽読していた日本最初の植物学の教科書『植物浅解初編』の著者であり、田中芳男同様、かねてから敬愛していた人物でした。

小野職愨は、明治23年、52歳で死去しました。

⑨田邊彰久(演:要潤)→矢田部良吉

要潤が演じる東京大学植物学教室の初代教授・田邊彰久は、そのまま同校初代教授・矢田部良吉がモデルです。

矢田部良吉は、官費留学生として米コーネル大学に学び、明治9年より、東京大学教授、東京博物館館長、小石川植物園管理をつとめ、明治21年に理学博士となりました。上京し、門をたたいた富太郎を受け入れ、しかし後に確執から袂を分かつことになります。

矢田部自身は、具体的な業績は少なかったとも言われていますが、日本の科学的植物学の先駆者であることは間違いありません。

明治24年には同職を辞職し、東京高等師範学校教授から校長を務めていましたが、明治32年、47歳のとき、鎌倉で水泳中に溺死しました

⑩徳永政市(演:田中哲司)→松村任三

田中哲司演じる東京大学植物学教室の助教授・徳永政市も、矢田部良吉の下で研究していた助教授の松村任三がモデルです。

松村任三は、法学から植物学に転じた異色派で、矢田部教授の助手からやがて助教授となって、研究を続けていました。自費によるドイツ留学を経て、明治23年に東京大学植物学教室の教授に就任。翌年には、矢田部の辞任に伴って事実上のトップとなり、附属植物園の初代園長を務めたりもしました。

実家を処分して再上京した富太郎を助手として迎え入れましたが、その後、やはり二人の間に溝が生じ、対立することになりました。

松村は、「帝国植物名鑑」を完成させるなど、日本の植物学の発展において確たる業績を残し、昭和3年、脳溢血のため72歳で死去しています。

⑪広瀬佑一郎(演:中村蒼)→広井勇

幼い頃の名教館時代の万太郎の学友で、のちに工部省で鉄道を通す仕事をする広瀬佑一郎のモデルは、「港湾工学の父」として知られる広井勇です。

広井勇は、富太郎と時を同じく名教館に学び、伊藤蘭林に師事しましたが、父の死をきっかけに11歳で上京。その後、札幌農学校に学び、卒業後は開拓使御用掛、続く工部省で鉄道建設分野に尽力しました。欧米留学を経てからは、教育と実務の両面で活躍しました。

1928年10月1日、狭心症により東京市牛込区の自宅にて65歳で死去しました。

ちなみに、広瀬佑一郎という役名は、富太郎の人生に深い影響を与えた別の二人の人物、永沼小一郎と池野成一郎も彷彿とさせます。そのことから、広井勇ばかりか、複数の人物の要素を組みあわせた人物造形の可能性もあります。

※永沼小一郎と池野成一郎については、下記の記事の中で富太郎との関係および簡単な人物像を紹介しています。

⑫楠野喜江(演:島崎和歌子)→楠瀬喜多

島崎和歌子扮する「民権ばあさん」こと自由民権運動に情熱を燃やす高知の女性・楠野喜江のモデルが、日本初の女性参政権を訴えた楠瀬喜多です。実際、楠瀬も「民権ばあさん」と呼ばれていました。

夫と死別し、子のいなかった楠瀬が戸主として相続しましたが、納税者であるにも関わらず、女性であることを理由に高知県区会議員選挙権を得られなかったことから、積極的に女性参政権運動に携わるようになったと言います。

板垣退助に賛同し、立志社の自由民権運動に参加しながら、自ら高知のみならず四国各地で遊説を続けました。大正9年に84歳で死去しています。

⑬大畑義平(演:奥田瑛二)→大田義二

出版の費用をおさえようと、富太郎は自ら石版印刷を学ぼうと考えます。そこで、足を向けたのが、神田錦町にあった大田義二の経営する印刷所でした。

富太郎は、昼間は大学に通い、夜は印刷所に通って石版印刷を習得します。大田義二は、富太郎の熱心さに心動かされ、一台の石版印刷機を世話したようです。

富太郎と大田義二との親交は続き、その後、壽衛をくどく際には、大田にその仲介を依頼しました。

⑭永守徹(演:中川大志)→池長孟

経済的に追い詰められ、植物標本を手放さざるを得なくなった富太郎を救ったのが、当時、京都帝国大学法科の学生で、神戸市東灘区の資産家の御曹司だった池長孟(はじめ)でした。

池長孟は、その後、神戸南蛮美術館(現在の神戸市立博物館)を設立したり、神戸育英高校長を務めたりするなど、人格者として知られていました。昭和30年に死去しています。



牧野富太郎ゆかりの場所のその後と現在【生家・家】

①生家と「岸屋」

牧野富太郎の生家および「岸屋」は、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷にありました。現在の住所では、高知県高岡郡佐川町1485番地にあたります。

東京への仕送りも多額にのぼり、家業もかつての勢いをすでに失っていたことから、富太郎は、実家および酒蔵のすべてを、番頭の井上和之助と従妹の牧野猶に譲渡し、富太郎の所有ではなくなりました。その後、しばらく井上夫妻が経営していましたが、まもなく閉業。猶も晩年は地元を離れ、東京に暮らしていました。

当時の生家は現存せず、跡地には、現在、記念碑と当時の屋敷の外観をできるだけ再現した「牧野富太郎ふるさと館」が立っています。

■牧野富太郎ふるさと館
住所:高知県高岡郡佐川町1485番地

②名教館

牧野富太郎ら、多数の先覚者を輩出した「名教館」ですが、明治20年に玄関部分を佐川尋常小学校(現在の佐川小学校)に移築。その後、平成26年に上町地区に再移築され、今は佐川のシンボルとして人気の観光スポットとなっています。

本来の「名教館」のあった跡地には、記念碑のみが立っており、その碑銘を書いたのは富太郎です。

■名教館
住所:高岡郡佐川町甲1472-1
公式HP:https://sakawa-kankou.jp/spot/11
■記念碑
住所:高知県高岡郡佐川町甲1250-13

③東京の自宅

東京都練馬区東大泉の自宅跡地は、現在、練馬区立牧野記念庭園として一般公開されています

当時の屋敷などは現存していませんが、庭園には、富太郎自身が当時植栽した品種を含む、約300種の植物が植えられ、展示室には、富太郎の書斎などが再現されています。

■練馬区立牧野記念庭園
住所:東京都練馬区東大泉6-34-4
公式HP:https://www.makinoteien.jp/



実話と創作が混じる『らんまん』

ドラマ『らんまん』は、牧野富太郎をモデルにした、あくまでもオリジナルストーリーですが、上記の通り、多くの登場人物に実在のモデルがいます。

事実と創作を見比べながら視聴するのも、また別の面白さがあるのではないでしょうか?

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