牧野富太郎はどんな人?実話/家族/晩年/子孫【らんまん】

牧野富太郎・らんまん ドラマ

2023年4月から9月にかけて放送された、NHK連続テレビ小説108作目『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルが、幕末から昭和まで生きた日本を代表する植物学者の牧野富太郎です。

ドラマでは、事実とは多少異なるオリジナルストーリーが展開しますが、本記事では、牧野富太郎の生涯、家族やゆかりの人物・地など、知られざる実話について詳しくご紹介します。

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『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルが牧野富太郎

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)の第108作目として放送された『らんまん』。神木隆之介扮する主人公・槙野万太郎のモデルが、「日本の植物学の父」として知られる牧野富太郎です。

ドラマは、江戸時代末期、四国の高知にある造り酒屋「峰屋」を営む裕福な一家に生まれた槙野万太郎が、植物の魅力に取りつかれ、独学で植物研究をきわめていく姿を描きます。

牧野富太郎の故郷である高知を中心に選ばれた、自然豊かなドラマのロケ地については、下記の記事をご覧ください。

まずは、モデルである牧野富太郎の生涯について詳しく紹介したあと、その他、彼に深い影響を与えた重要人物についても触れたいと思います。



牧野富太郎の生涯について

①生い立ち(祖父母・父母)と少年時代

牧野富太郎は文久2年(1862年)4月24日(26日との説もあり)、土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に、養子の父・佐平、母・久寿の一人息子として生まれました。牧野家は、代々、雑貨商と酒造業「岸屋」を営む裕福な豪商でした。

富太郎自身も病弱でしたが、3歳のときに父を、5歳のときに母を、さらにその翌年には「岸屋」の大旦那だった祖父を相次いで亡くし、その後は、気丈で賢明な祖母・浪子のおおらかな養育のもと、育ちます。

幼い頃から、植物を観察するのが好きでした。郷校の名教館で学び、伊藤蘭林を師にもったことで、その後、独学で植物学を極める礎を築いたと言われています。明治政府の学制改革により創設された佐川小学校に入学しましたが、2年で自主退学。逆に15歳にして、同校の代用教員を2年間勤めています。

その後、高知に出て、教師をしていた永沼小一郎と出会い、本格的な植物学に目覚めるなど多大な影響を受けました。

②上京と最初の結婚(?)

明治14年、19歳のとき、内国勧業博覧会見物および資料購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を従え、上京します。同時に、丸の内下町にあった植物局を訪ね、かねてから憧れていた田中芳男小野職愨の2人と知己を得たり、日光まで植物採集に出かけたりしました。

高知に戻ったのちは一時、自由党に入党し、自由民権運動にも傾倒しましたが、まもなく脱党し、植物研究に専心するようになります。明治17年には祖母を説得して2度目の上京を果たし、東京帝国大学理科大学の動植物学教室の門をたたきました。

同教室への出入りを許可され、植物学の先駆者である矢田部良吉教授、その下の松村任三助教授のもと、自費で研究を続けます。

高知と東京を一年ごとに往復する生活のかたわら、祖母の望みに従い、従妹の牧野猶(なお)と結婚。しかし長く続かず、すぐに離婚に終わっています。

若い頃に一度短い結婚歴があったことは、富太郎と直接親交のあった上村登著『花と恋して―牧野富太郎伝』に書かれています。公式なプロフィールなどからは抜け落ちているため、近い人間しかしらない書面上の婚姻だったのかもしれません。

③「日本植物志図篇」刊行、小沢壽衛との再婚

明治20年には機関誌「植物学雑誌」の創刊に携わったほか、翌年には「日本植物志図篇」を自費出版し、高い評価を得ます。出版の際には、大田義二の経営する印刷所で自ら石版印刷を習得。さらに日本初の学名「ヤマトグサ」を命名するなど、日本の植物研究において一定の地位を確立しました。

明治23年、28歳のとき、九段の今川小路にあった菓子屋の娘・小沢壽衛と再婚します。麹町三番町に下宿していた富太郎が、大学に通う途中の店で見初めたのです。

しかし自費出版の成功と強すぎる自己主張は、大学の矢田部良吉教授と軋轢をうみ、ロシア留学も頓挫します。親友だった植物学科の学生・池野成一郎らの計らいで、農科大学に研究の場を得ました。

ただその頃には、実家の資金負担が相当の額にのぼっており、富太郎が一人、一時帰郷。家財をすべて番頭らに譲渡して処分し、東京に戻りましたが、その間に、長女・園子が病死するという悲劇に見舞われています。松村任三が教授となっていた理科大学に助手の仕事を得ました。

④経済的困窮と学位授与

実家の後ろ盾を失い、それでも研究にお金をつぎ込んだ結果、家計はひっ迫。すでに数人の子を抱えていた壽衛は、内助の功でお金を工面し、家庭を顧みない夫を支えづけました。

また、理科大学の松村教授とも確執を抱え、冷遇されます。学長だった箕作佳吉博士の引き立てでなんとか仕事を続けていましたが、箕作が急死すると、助手の職を罷免されます。周囲の反対運動によって、代わりに講師の職を得ました。

出版物は大きく売れることなく、13人の子どもをもうけて、家計は極限まで困窮。やむなくこれまでの植物標本をすべて売却しようとしたところ、裕福な京都大学の学生・池長孟の支援により、難を逃れます。その後も池長の支援は続き、富太郎はその恩に感謝し、標本をおさめた会館を「池長植物研究所」と命名しています。

昭和2年には、65歳にして、東京帝国大学理学部教授会の満場一致により、ついに理学博士の学位を得ます。しかし、その翌年、内助の功で富太郎を支えてきた壽衛が55歳で死去。富太郎は、その死を悼み、新種の笹に、妻の名をとって「スエコザサ」と命名しました。

⑤晩年と死去、お墓

妻を失ってからも、富太郎は研究に情熱を注ぎ、多くの論文を発表し続けます。昭和14年、77歳のときに東京帝国大学を辞任。翌年には、研究の集大成となる「牧野日本植物図鑑」を刊行しました。

昭和23年には、皇居にて天皇陛下に植物ご進講、昭和25年に日本学士院会員任命、翌年に第1回文化功労者、昭和28年には東京都名誉都民の名誉を得ています。。

数年前から、肺炎、腎盂炎、腎臓結石など患ってきましたが、昭和32年(1957年)1月18日、満94歳にて永眠。没後、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈されました。

葬儀は東京の青山葬儀場で行われ、墓所は台東区谷中の天王寺に壽衛と並んでもうけられたほか、故郷の佐川町にも分骨されました。牧野公園と名付けられた一角に墓石があります。



牧野富太郎に大きな影響を与えた実在人物

【妻】壽衛

元彦根藩主井伊家の家臣であった小沢一政を父に持ち、かつては九段に大きな邸宅を構えていましたが、父の死後、家は衰退。京都生まれの母が、菓子屋を開業して子供たちを育ててきました。次女が壽衛であり、印刷屋の大田の仲介で、富太郎と結婚しました。

壽衛は、夫の研究資金と家計を支えるため尽力。菓子屋や料理屋を開業し、金策に動きました。大正15年には、料理屋を売却した資金で、豊島郡大泉字土支田(現在の練馬区東大泉)に自宅を建築しました。

富太郎の自伝には以下の通り書かれています。

「私の妻は、私のような働きのない主人に愛想をつかさずよくつとめてくれた。私の如き貧乏学者に嫁いで来たのも因果と思ってあきらめたのか、嫁に来たての若いころから、芝居も見たいといったこともなく、流行の帯一本欲しいと言わなかった」

引用:『草木とともに 牧野富太郎自伝」牧野富太郎著、角川文庫

壽衛は、昭和3年、悪性腫瘍により55歳で死去しました。

【祖母】浪子

富太郎の類稀なる才能が育まれたのは、それを受け入れ、支え続けた祖母の功績が大きかったと言われています。

浪子は、高岡村(現在の土佐市)に生まれ、美人で非常に聡明な女性であったようです。

上述のとおり、富太郎の成人後は、従妹の猶と結婚させ、家業を継いでもらうことを願っていたようですが、結局、研究を続けたいという意思を受け入れました。明治20年、ちょうど富太郎が「植物学雑誌」の創刊に携わっていたころに、死去しています。

【恩師】永沼小一郎

富太郎が佐山の小学校の教師を辞し、高知市に出たときに知り合ったのが、永沼小一郎です。

丹後・舞鶴から高知市に移り、県立中学校、県立師範学校で長らく教鞭をとっていた人物で、和漢洋の学に通じた博学者でした。

英語や植物学にも精通しており、富太郎が本格的に学問として植物学の道を進む上で、最初のきっかけになった人物です。永沼はその後、明治30年に教職をやめて上京。小石川区巣鴨町に暮らしていました。

【親友】池野成一郎

池野成一郎は、東京帝国大学理科大学の学生時代から、富太郎と親交があり、その後も親友として公私に渡って支え続けました。

明治25年に同校植物学科を卒業し、翌年農科大学助教授、独仏留学を経て、明治43年に理学博士となりました。富太郎を支援したばかりか、自身も細胞学や遺伝学などにおける業績著しく、とくにソテツの精子発見は世界的に高い評価を得ました。

昭和18年に、77歳で死去しました。

【恩人】池長孟

既述のとおり、植物標本を手放すところまで経済的に追い詰められた富太郎を救ったのが、当時、京都帝国大学法科の学生だった池長孟でした。

神戸市東灘区の裕福な家の出身で、大学卒業後は、神戸南蛮美術館(現在の神戸市立博物館)を設立するなど、美術収集家として著名でした。

のちには、神戸育英高校長を務めるなど、人格者として知られています。昭和30年に死去しました。

※ドラマに登場する人物のモデルについては、下記の記事で詳しく紹介しています。

子孫とその現在

※写真の中央の男性が、ひ孫の牧野一浡氏。

富太郎と壽衛は13人の子どもをもうけましたが、夭折する子も多く、成人したのは7人(一説には6人)だけでした。広く知られているのは次女の鶴代と四女の玉代です。

鶴代は、牧野記念庭園の非常勤職員として携わり、1970年に亡くなるまでさまざまな関連書籍の出版にも尽力していたようです。玉代は、五交商事や日本造型の会長を務めた岩佐喜七と結婚しました。

鶴代の孫である牧野一浡(まきのかずおき)氏は、現在、牧野記念庭園記念館の学芸員として活躍しています。2023年3月に発行された書籍『牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生』の監修も手掛けています。

牧野富太郎ゆかりの地

高知県立牧野植物園

富太郎が死去した翌年に開園した、敷地6ヘクタール、1500種、13000株の植物が植えられた植物園です。園内には、「牧野富太郎記念館」があり、蔵書や直筆の原稿、写生画などが展示されています。

住所:高知県高知市五台山4200-6
公式HP:https://www.makino.or.jp/

練馬区立牧野記念庭園

東京都練馬区東大泉の自宅跡地です。庭園には、約300種の植物が植えられ、中には学問的に非常に貴重な品種もあります。2023年4月には、書屋展示室において、富太郎が実際に使用していた書斎など当時を再現した展示がオープンしました。

住所:東京都練馬区東大泉6-34-4
公式HP:https://www.makinoteien.jp/



牧野富太郎についてより深く知るためのおすすめ著作

牧野富太郎の生涯を知る上で、おすすめの著作です。

『草木とともに 牧野富太郎自伝』 

短いエッセイを集めたものです。関わった様々な人たちのことが綴られていますが、ページの半分ほどは植物に関するものであり、自伝だと思って読むと少々違和感があるかもしれません。亡くなる1年前の1956年に発行されたものですが、2022年に文庫して復刻されました。

『牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生』牧野一浡 監修、四條たか子 著

2023年3月に発行されたばかりの、富太郎と壽衛の関係を軸にした書籍です。既述のとおり、富太郎のひ孫にあたる、牧野一浡が監修しています。

『花と恋して―牧野富太郎伝』上村登著

実際に牧野富太郎と親交のあった理学博士の上村登が執筆した伝記です。そのため、身近な者ではないとわからないような、富太郎や家族の素顔まで書かれた内容になっているのが特徴です。もともと1999年に発行されたものですが、装いもあらたに、2022年に第2刷が発行されました。

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