朝ドラ『ブギウギ』のモデル:笠置シヅ子の生涯/娘/死因

笠置シヅ子 ドラマ

2023年10月2日にスタートするNHK連続テレビ小説第109作目『ブギウギ』。

ドラマのヒロイン・花田鈴子(芸名:福来スズ子)のモデルとなっている「ブギの女王」、笠置シヅ子について、その生涯や家族、晩年、死因など詳しくご紹介したいと思います。

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2023年10月2日放送スタートの朝ドラ『ブギウギ』について

朝ドラ第109作目として、2023年10月2日より放送される『ブギウギ』は、戦後、「ブギの女王」として一世を風靡した笠置シヅ子をモデルにしたフィクションドラマです。

ヒロインの花田鈴子(はなだすずこ)、芸名:福来スズ子(ふくらいすずこ)を演じるのは、水谷豊と伊藤蘭の一人娘、趣里。脚本を、映画『百円の恋』やドラマ『拾われた男 Lost Man Found』で知られる足立紳と、ドラマ『マルモのおきて』などで知られる櫻井剛が共同で手掛けます。

また、本作の音楽を担当する服部隆之が作詞・作曲した主題歌「ハッピー☆ブギ」を歌うのは、趣里、EGO-WRAPPIN’の中納良恵、さかいゆうの3人です。ちなみに、服部隆之は、笠置シヅ子の恩師にして名コンビであり、本ドラマにもモデルとした人物が登場する服部良一の孫です。

ドラマが撮影されたロケ地については以下の記事をご覧ください。

ヒロインのモデル・笠置シヅ子はどんな人?【生涯/娘・家族/死】

それでは、モデルとなっている笠置シヅ子とは、いったいどんな生涯を送った女性だったのでしょうか?

生い立ちや家族、キャリア、結婚など私生活から死因まで、詳しくご紹介します。

芸名は、歌手引退前までは「シ子」、女優に専念してからは「シ子」と変更していますが、ここでは原則としてその時点の名前で記しています。

【1】生い立ちと家族

笠置シヅ子(本名:亀井静子)は、1914年(大正3年)8月25日、香川県大川郡相生村黒羽(後の引田町、現在の東かがわ市)に生まれました。

地主の一人息子で郵便局に勤めていた実父の三谷陳平は、静子誕生の翌年に25歳で病死。三谷家の家事見習いだった二十歳前の実母・谷口鳴尾は、未婚のまま静子を連れて実家に戻ります。このとき、たまたま近所に、手袋工場をしていた実家に出産のため大阪から里帰りしていたのが亀井うめです。うめにもらい乳をした縁で、そのままうめのところに養女に出されることになったのです。

当時、大阪で米屋を営んでいた養父・亀井音吉とうめの夫婦には、実子の長男・頼一、静子の一か月後に生まれた次男・正雄(3歳で病死) がおり、静子はミツエの名で迎えられます。

その後、三男の八郎も誕生し、一家は米屋から風呂屋に転業。家も下福島から中津、十三、川口、大正区南恩加島へと4度引っ越し、転校を繰り返しました。

・名は、1921年(大正10年)、下福島小学校に入学したさい、ミツエを志津子に改名。さらに、9歳のときに静子に戻しています。
・シヅ子が自身の出生の秘密については知るのは、17、8歳になってからでした。

【2】キャリアのスタート(大阪時代)

音吉もうめも芸事が好きだったこともあり、静子は3歳から日本舞踊や三味線を習っていました。やがて、銭湯の脱衣場で、歌や踊りを披露したのが近所の評判となります。

1927年(昭和2)に小学校を卒業すると、念願の宝塚少女歌劇を受験します。ところが、小柄で身長が足らず不合格。すぐに気持ちを切り替えて、道頓堀の松竹座の門をたたき、三笠静子の芸名で大阪松竹少女歌劇に入団しました。

入団5年目に「春の踊り」で道化娘を演じ、注目を集めるようになります。1933年には「桃色争議」が勃発。その後、道頓堀から千日前の大阪劇場(大劇)に拠点が移り、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に名称変更しました。その頃には松竹楽劇のトップスター10人に選ばれるほどの人気を得ていました。

1935年には、皇室との同姓は畏れ多いと、芸名を「笠置シズ子」と改名しています。

1937年、松竹は、東京に浅草国際劇場をもうけ、翌年の松竹楽劇団(SGD)の旗揚げ公演に、大阪組から23歳の笠置シズ子が選ばれて専属となりました。

1933年「桃色争議」について:
親会社の松竹が、松竹少女歌劇部に対し、賃金削減と一部の解雇を通告したことで、部員たちが労働ストライキを起こします。東京では水の江瀧子をリーダーに湯河原の温泉に、大阪では飛鳥明子をリーダーに三笠静子らも加わって高野山に立てこもりました。
結果、争議団側の一応の勝利に終わったものの、水の江は謹慎、飛鳥は退団を余儀なくされます。劇団も一時不振に陥ったことで、心機一転を図り、名称・拠点の変更のきっかけとなったのです。



【3】「スイングの女王」となった戦時中、そして婚約

1938年、SGD旗揚げ公演の稽古場で、運命の名師弟コンビとなる服部良一と出会います。服部は、それから笠置シズ子のほとんどすべての歌を作曲。シズ子は、歌い踊るショー・ガールとしてのみならず、ジャズの名歌い手として「スイングの女王」と呼ばれました。

しかし、戦争の激化にともない、警察当局からジャズを歌う敵性歌手とみなされ、活動を極端に制限されることになります。1941年には、ついにSGDも解散。笠置はこれを機に、松竹を退団し、服部の援助をうけて「笠置シズ子とその楽団」を設立しました。

地方巡業や工場慰問など地味な活動を余儀なくされていたなか、巡業先で出会ったのが、吉本興業の御曹司でまだ早稲田大学の学生だった吉本頴右(えいすけ)でした。2人はすぐに恋に落ちますが、ほどなく頴右の結核が発覚します。

成功により得た当時の月給200円のうち、150円を大阪の両親に仕送りする親孝行の娘でした。当時、病床のうめの治療費捻出の目的もあって、一時、松竹から東宝に移籍する話も持ち上がりましたが、結局、服部良一の仲介で松竹に留まることで決着しています。

【4】戦後、「ブギの女王」へ

戦後、闘病する頴右と同棲・交際を続けるかたわら、日劇の再開第一回公演に出演し、徐々に活動を再開させていきます。しかし、頴右は1947年5月19日、翌月に生まれる娘のヱイ子を見ることなく、療養していた西宮の実家で死去しました。

シズ子は当初、妊娠と頴右との結婚を機に、芸能活動を引退するつもりでしたが、結局、娘を抱えて再び歌手として再起の道を選ぶことになります。

そんなどん底のシズ子のために、服部が用意したのが「東京ブギウギ」でした。曲は爆発的な大ヒットを記録。シズ子は、エネルギッシュに歌い踊る「ブギの女王」として、敗戦後の日本を明るく照らす国民的スターへと躍り出ました。

エノケンこと榎本健一と組んで喜劇女優としても人気を博し、主役あるいは準主役としてたくさんの映画にも出演。NHKの紅白歌合戦では、第2回、3回、4回、7回と4度の出場を果たしています。

1949年、著名人の高額納税者リストでは、一位の作家・吉川英治に次いで、笠置シズ子が二位に名を連ねました。
また、1981年に幕をおろした日劇の歴史の中で、ワンマンショー一日動員1万人以上を達成したのは、戦前の山口淑子(李香蘭)、戦後の笠置シズ子の2人だけです。

【5】キャリア全盛期、美空ひばりとの確執

その頃、笠置シズ子のモノマネをし、「ベビー笠置」の愛称で売り出した天才少女が現れます。美空ひばりでした。

その後、シズ子がひばりに「自分のブギを歌うな」と意地悪をし、デビューの妨害をしたという噂が拡がり、美空ひばり伝説の悪役に仕立て上げられることになります。しかし事実は、ひばり本人の知らぬところで、ひばりの母・喜美枝とマネージャーの福島通人、ライターの旗一平らがひばりを売り出すために仕掛けたものだったと言われています。

そうした中、両者の確執を文字通り決定的なものにしたのが、当時の芸能人が自身のキャリアに箔をつける手段として行っていたアメリカ公演でした。1950年、大スターの笠置の渡米の一か月前、まだデビューまもない美空ひばりが先にアメリカ公演をすることが判明。その段に至って、興行価値の低下を危惧した笠置と服部側から、本当に、アメリカでのブギ歌唱を禁止する要請がひばり側に出されたのです。

そのときの経緯については、下記の記事の中で詳しく記しています。

その後、NHKで一度だけ見せかけの仲直り共演をしただけで、両者の関係は疎遠のままでした。笠置シズ子は、悪者に仕立てられたにも関わらず、自ら美空ひばりに反論することはしませんでした。



【6】歌手を廃業し、女優・タレントへ

1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結されたこともあり、社会や世相に変化に現れます。1952年になるとブギが下火になってマンボが流行。入れ替わるように、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘がそろってマンボを歌い、やがて全盛期を迎えます。

前年の大晦日にNHK紅白歌合戦で大トリを務めた笠置シズ子ですが、翌1957年に入って早々、歌手を廃業し、女優業に専念すると宣言します。その理由を訊かれ、自分が最も輝いた時代をそのまま残したいからだと答えたり、太って踊れなくなったからなどと答えたりしていますが、時代の変化をはっきりと読み取っていたのは確かでした。

芸名を笠置シズ子からシヅ子に改め、自らギャラダウンを申し出て、以後、さまざまなドラマや映画に出演します。他にも、1966年から1980年まで続いたTBS「家族そろって歌合戦」でレギュラー審査員を務めたり、カネヨ石鹸「カネヨン」の顔として継続してCMに起用されたりしました。

歌手としては、1960年に「服部良一銀婚式記念シルバーコンサート」に特別出演して歌ったのが、公における最後の場だと言われています。

【7】笠置シヅ子の死因と墓所

1981年に乳ガン、1983年に卵巣ガンが見つかり手術。ともにいったん回復したものの、翌年に再発し、入院します。

病床では、1985年2月、2週に渡って放送された服部良一を主人公にしたドキュメンタリードラマ『昭和ラプソディ』を見ていたようです。同ドラマでは、服部良一を財津和夫、笠置シズ子を研ナオコ、淡谷のり子をちあきなおみが演じたほか、ドキュメンタリー部分では、服部、淡谷ら本人が登場。しかしながら、病床にあった笠置の出演はかないませんでした。

1985年(昭和60年)3月30日、卵巣ガンにより、娘のヱイ子に看取られながら、中野区の佼成病院で死去しました。享年70歳。葬儀委員長は服部良一が務め、墓所は杉並区の築地本願寺別院和田堀廟所にあります。



その他、笠置シヅ子にまつわる実話

■笠置シヅ子の家

笠置シズ子は、36歳となった1951年に、世田谷区弦巻1丁目に家を新築し、亡くなるまでそこに暮らしました。

広い庭と白い壁が目立つ豪華な家でしたが、派手というより、さりげないセンスのあふれた瀟洒な平屋だったようです。

いつの年代かは不明ですが、亡くなったあと、その地はマンションに建て替えられたようです。

■潔癖症で知られた笠置シヅ子

笠置シヅ子は、自身も「困った癖」だと認めるかなりの潔癖症でした。他人が触ったものは、エタノールで消毒しないと気が済まなかったようです。

その原因として、少女時代、大阪の家が台風で被災し、あまりの汚さから家財など消毒しなければ使えない状態だったことが、今も習慣として身についてしまったのだとか……。

ただ、潔癖症とは別に、人間性も責任感が強く、真面目で一途、裏表がなく正直だったことから、周囲は妙に納得していたようです。

綺麗好きが幸いし、カネヨ石鹸「カネヨン」のCMの顔に選ばれ、長く出演していました。

■笠置シヅ子の一人娘・亀井ヱイ子氏のその後と現在

既述の通り、吉本頴右とは正式な婚姻に至らぬまま先立たれ、その後、生涯独身を貫いた笠置シズ子。頴右が死去した数週間後の1947年6月1日に生まれたのが一人娘のヱイ子でした。母娘ともに、実父の顔を知らないという運命を背負ったことになります。

1954年3月31日には、小学校入学を控えたヱイ子の誘拐・身代金要求の脅迫状が届く事件が発生。あっさり無職の30歳の男が捕まり、危害はありませんでしたが、シヅ子は以後、それまでヱイ子の写真を公表したり、テレビに出演させたりしていたのをプツリとやめ、普通の娘として育てるようになりました。

シヅ子が亡くなったあとのヱイ子氏のその後については、何も公になっていません。2017年9月、BS11で放送されたドキュメンタリー番組「あのスターにもう一度逢いたいー笠置シヅ子 ブギの女王の隠された愛の物語ー」に一度娘・亀井ヱイ子の名でゲスト出演されているぐらいです。

しかし、朝ドラ『ブギウギ』の放送にあわせて2023年9月15日に発行された新刊『笠置シヅ子 その言葉と人生』の監修者に亀井ヱイ子氏の名があり、70代中盤を迎えた現在もお元気でいらっしゃることは確かなようです。

朝ドラ『ブギウギ』で笠置シヅ子はどんな風に描かれる?

以上、朝ドラ『ブギウギ』のヒロインのモデルである笠置シズ子について、詳しくご紹介しました。

ドラマはフィクションをうたっていますから、事実とは異なる創作も多くなることが予想されますが、実話を知って視聴するとまた別の面白さがあるはずです。

笠置シヅ子について、もっと詳しく知りたい方は、本記事の参考資料でもある以下の伝記がおすすめです!

『ブギウギ』に続く朝ドラ第110作目の作品は『虎に翼』。ヒロインのモデルとなっている三淵嘉子についても、以下の記事で詳しく紹介しています。

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