2023年10月2日放送スタートのNHK連続テレビ小説第109作目『ブギウギ』。
趣里が演じるヒロイン・花田鈴子のモデルとなっているのが、戦後日本「ブギの女王」で知られた笠置シヅ子です。
本記事では、ドラマにも登場する可能性のある、笠置シヅ子が深く関わる実在の人物を25人ご紹介します。
- 朝ドラ『ブギウギ』ヒロインのモデルは笠置シヅ子!
- 笠置シヅ子に深く関わる実在人物を紹介(その後と現在)
- ①養母・亀井うめ→花田ツヤ(演:水川あさみ)
- ②養父・亀井音吉→花田梅吉(演:柳葉敏郎)
- ③弟・亀井八郎→花田六郎(演:黒崎煌代)
- ④実父・三谷陳平→治郎丸菊三郎(遺影のみの登場)
- ⑤実母・谷口鳴尾→西野キヌ(演:中越典子)
- ⑥娘役スター・飛鳥明子→大和礼子(演:蒼井優)
- ⑦男役スター・柏ハルエ→橘アオイ(演:翼和希)
- ⑧娘役スター・芦原千津子→リリー白川(演:清水くるみ)
- ⑨男役スター・アーサー実鈴→桜庭和希(演:片山友希)
- ⑩男役スター・秋月恵美子→秋山美月(演:伊原六花)
- ⑪松竹の白井松次郎(あるいは大谷竹次郎)→大熊熊五郎(演:升毅)
- ⑫作曲家・服部良一→羽鳥善一(演:草彅剛)
- ⑬作詞家・藤浦洸→藤村薫(演:宮本亞門)
- ⑭作詞家・鈴木勝(まさる)→?
- ⑮演出家・益田貞信→松永大星(演:新納慎也)
- ⑯後援会長・南原繁→?
- ⑰歌手・淡谷のり子→茨田りつ子(演:菊地凛子)
- ⑱男役トップスター・水の江瀧子→登場せず?
- ⑲喜劇役者・榎本健一(エノケン)→棚橋健二(演:生瀬勝久)
- ⑳歌手・美空ひばり→水城アユミ(演:吉柳咲良)
- ㉑マネージャー・山内義富→山下達夫(演:近藤芳正)?
- ㉒恋人・吉本頴右(えいすけ)→村山愛助(演:水上恒司)
- ㉓吉本興業社長/頴右の母・吉本せい→村山トミ(演:小雪)
- ㉔東京吉本支社長・林弘高→坂口(演:黒田有)
- ㉕娘・亀井ヱイ子→花田愛子(演:小野美音)
- 朝ドラ『ブギウギ』はどこまで事実か?創作か?
朝ドラ『ブギウギ』ヒロインのモデルは笠置シヅ子!
NHK連続テレビ小説第109作目として、2023年10月2日より放送される『ブギウギ』は、戦後、「ブギの女王」として国民的人気を博した歌手・笠置シヅ子をモデルにしたフィクションドラマです。
ヒロインの花田鈴子(はなだすずこ)を演じるのは、水谷豊と伊藤蘭の一人娘、趣里。
笠置シヅ子の生い立ち・家族関係、キャリアなど詳しい生涯については、以下の記事をご覧ください。
笠置シヅ子に深く関わる実在人物を紹介(その後と現在)
笠置シヅ子のキャリアと私生活を語る上で、切っても切れない重要人物を選びました。
すでにドラマ上のキャストが発表されている人物もいますが、今後追加キャストとして発表されるか、あるいは登場しない可能性もある人物も含んでいます。
キャスト名の後に「?」と書いたものは、現時点で憶測したものです。今後、追加の情報が判明し次第、更新していきたいと思います。
※笠置の本名は「亀井静子」。また、芸名をキャリアの途中で「笠置シズ子」から「笠置シヅ子」に変更していますが、ここでは「シヅ子」で統一します。
①養母・亀井うめ→花田ツヤ(演:水川あさみ)
香川県旧大川群の引田(ひけた、現在の東かがわ市)でメリヤス・手袋工場を経営していた実家の中島家に、次男・正雄の出産のため大阪から里帰りしていたのが、亀井うめです。同じとき、生まれたばかりの静子(後の笠置シヅ子)を抱えたまだうら若い谷口鳴尾のため、添え乳をしてあげることになります。その縁から、静子をそのまま養女としてもらいうけ、2人の赤ん坊を抱えて大阪に戻るに至りました。
そうした経緯の本当のところの理由は不明ですが、うめ自身は、子ども好きで侠気肌の女性だったと言います。夫の音吉ともども芸事が好きだったことから、静子が3歳のときから日本舞踊や三味線を習わせ、芸能の才能を開花させるきっかけをつくりました。
1939年9月11日、胃がんと心臓病により死去。療養・治療のための費用は、東京からシヅ子が送金していました。
②養父・亀井音吉→花田梅吉(演:柳葉敏郎)
里帰り先から、実子ばかりか養女を連れて戻った妻・うめを快く迎えたのが夫の亀井音吉であり、静子の養父となりました。
当時は、大阪市下福島の中央市場近くで米屋をしていましたが、銭湯人気に乗じ、静子が小学生の頃に風呂屋に転業し、家族を養いました。
戦時中は、妻のうめに先立たれ、また静子の弟にあたる息子・八郎の戦死もあって、東京・三軒茶屋の笠置の借家に身を寄せていました。しかし、その家も東京大空襲によって焼きだされ、郷里の引田に戻って余生を過ごしたようです。
シヅ子は、大スターとなった娘のことを自慢する養父のため、1949年4月に「笠置シヅ子引田公演」を実現させ、売り上げも町に寄付しています。
③弟・亀井八郎→花田六郎(演:黒崎煌代)
亀井音吉とうめ夫婦は、養女の静子のほか、実子を3人もうけました。長男の頼一、次男の正雄、三男の八郎です。頼一のその後についてはよくわかっていませんが、静子の一か月後に生まれた正雄は3歳のときに病死、そして二歳下の弟・八郎のことを、静子はとても可愛がっていたようです。
八郎は、1935年、19歳のときに床屋を開業しましたが、3年後、軍に召集されます。1941年12月6日、ベトナム沖の海上で戦死しました。25歳。
戦死の報を受け、富山で巡業中だったシヅ子は、さすがにそのときだけは敵の歌であるジャズが歌えなくなったと言います。シヅ子は、1952年4月、当時まだ生きていた養父・音吉の暮らす東かがわ市引田の萬生寺に、亀井家の墓を二基、建てました。1つは養母・うめ、もう一つは、八郎のためでした。
④実父・三谷陳平→治郎丸菊三郎(遺影のみの登場)
代々砂糖業を営んでいた豪農の一人息子として生まれ、相生村黒羽の郵便局に勤めていたのが、三谷陳平です。同居していた家事見習いの谷口鳴尾と結ばれ、1914年(大正3年)8月25日、静子が生まれました。
ところが、翌年の秋、25歳の若さで病死。シヅ子が赤ん坊の時点ですでに故人であることから、ドラマには遺影のみで実際には登場しない可能性が高いと思われます。
⑤実母・谷口鳴尾→西野キヌ(演:中越典子)
三谷家で和裁を習いながら、家事見習いとして同居していたのが、当時まだ二十歳に満たない谷口鳴尾でした。女中ではなく、れっきとした由緒ある家の出であったようです。5歳上の三谷陳平と結ばれますが、結婚は家族に反対され、未婚のまま静子をもうけます。出産後は静子を連れて引田の実家に戻りました。
その際、乳の出ない鳴尾に代わり、添え乳をしてくれたのが既述のとおり、亀井ウメであり、静子をそのまま養女として引き取ってもらうに至ったのです。
その後、静子が自分の出自を知ることになるのは、17、8歳になってからのことです。親戚の法事だと言われて相生村を訪れた際に、偶然耳にし、一人で鳴尾に会いに行きましたが、互いに親子の名乗りをすることもなく、あっさりとした対面だったようです。
1948年に刊行された自伝『歌う自画像 私のブギウギ伝記』の中で「あの人は涙ひとつ見せず、6歳ぐらいの男の子と一緒に座っていた」と述べていることから、すでに別の家庭をもうけていたのかもしれません。鳴尾のその後については、よくわかっていません。
⑥娘役スター・飛鳥明子→大和礼子(演:蒼井優)
大阪松竹楽劇部、一番最初のスター・飛鳥明子さん。笠置シヅ子さんのみならず、水の江瀧子さんも尊敬する人として挙げている。
— 小針侑起 (@peragoro22) October 9, 2023
トゥシューズが簡単に手に入らない大正時代、手製のトゥシューズを履いて、爪先から血を流しながらバレエの訓練に明け暮れたというエピソードも。 pic.twitter.com/AMV0dh87cD
1907年、開業医の家に生まれ、女学校卒業後に松竹楽劇部に入部。クラシックバレエの名手として、初代プリマドンナのトップスターとして人気を博していたのが飛鳥明子です。足先に包帯を巻き、血だらけになっても真摯にバレエの稽古に取り組んでいたという逸話は有名です。
1933年には、待遇改善を求めた「桃色争議」の先頭に立ち、シヅ子ら部員とともに高野山に立て篭もりました。飛鳥はその責任をとって退団しています。
その後、宝塚音楽学校の指揮者の男性と結婚。振付師に転身し、後輩の指導にあたっていましたが、1937年、病により29歳で若さで他界しました。娘が一人おり、今も関西で暮らされているようです。
⑦男役スター・柏ハルエ→橘アオイ(演:翼和希)
橘アオイは、複数の人物をモデルに組み合わせたキャラクターのようですが、名前から明らかにその一人だと推測されるのが柏ハルエ(晴江)です。
1913年、大阪に生まれ、女学校を卒業後、松竹楽劇部に入部します。ただドラマとは違い、笠置シヅ子の後輩でした。「桃色争議」を経て大阪松竹少女歌劇団に改名した後は、男役のトップスターとして劇団を盛り立てました。男役では、「東の水の江瀧子、西の柏ハルエ」として人気を二分しました。
柏ハルエは、1940年前後に一線を退いたと思われますが、その後についてはよくわかっていません。
⑧娘役スター・芦原千津子→リリー白川(演:清水くるみ)
⑨男役スター・アーサー実鈴→桜庭和希(演:片山友希)
こちらは大阪松竹少女歌劇『国際大阪おどり』の一場面より。左から芦原千津子さん、笠置シズ子さん、アーサー美鈴さん。#tarkiethestory でも重要な役で登場する笠置さんの戦前の舞台写真は意外と少ないので、貴重な一枚といえます。
— 小針侑起 (@peragoro22) January 2, 2022
何をお歌いになっているのでしょうか? pic.twitter.com/WVRORX3OBm
鈴子の同期として入部し、仲良しになる白川幸子(娘役芸名・リリー白川)と桜庭辰美(男役芸名・桜庭和希)ですが、実際には複数の人物を組み合わせたキャラクターである可能性が高いと思われます。そんな中、それぞれのモデルの一人だと考えられるのが、娘役の芦原千津子と、男役のアーサー美鈴(美鈴あさ子)です。
芦原千津子は、1931年に松竹楽劇部に入部。シヅ子の同期ではなく、後輩にあたります。娘役トップスターとなり、男役の秋月恵美子とのコンビで人気を博しました。1973年に退団。2009年に死去しています。
アーサー美鈴も、実際にはシヅ子の2歳下にあたり、男役トップスターとして人気を博した人物です。「桃色争議」により当時のトップたちが去ったあと、シヅ子とともに歌劇団を背負いました。同じ男役の柏ハルエとは別に、「東のターキー、西のアーサー」と呼ばれたこともあります。アーサー美鈴のその後については、よくわかっていません。
それぞれ完全なモデルではないということで、あえて名前も混在させ、似たものにはしなかったのではないでしょうか。
⑩男役スター・秋月恵美子→秋山美月(演:伊原六花)
本当に暑い…夜なのに涼しくならない。。
— 小針侑起 (@peragoro22) June 30, 2022
せめて歌劇雑誌のグラビアを見て、暑さを紛らわせたいとページをめくる。
秋月恵美子さん、いなせ。 pic.twitter.com/XCAbmZpMYt
鈴子の後輩として花咲歌劇団から移籍してくる秋山美月のモデルは、その名前から、男役トップスターとして活躍した秋月恵美子だと思われます。
秋月恵美子は1917年生まれ、1930年に松竹楽劇部に入部しました。タップダンスの名手であり、芦原千津子とのコンビで人気を博しました。笠置シヅ子、アーサー美鈴、柏ハルエの次に、秋月と芦原のコンビが劇団の看板を背負った形になります。
座長として海外公演を成功させたり、映画にもたびたび出演。1973年に引退してからは、1994年までOSK日本歌劇学校の講師を務めていました。2002年に85歳で死去しています。
⑪松竹の白井松次郎(あるいは大谷竹次郎)→大熊熊五郎(演:升毅)
【大阪百年前】56
— 大阪歴史博物館 (@naniwarekihaku) July 30, 2021
89年前。中村鴈治郎と白井松次郎。上方歌舞伎随一の名優 初代鴈治郎(がんじろう、左)と、歌舞伎を興行した松竹の創業者 白井。大阪歌舞伎座の竣工を祝して乾杯! ビールというところがハイカラだ。歌舞伎座貴賓室にて。(雑誌『道頓堀』昭和7年10月号)(ふ) pic.twitter.com/qv5QRJblMI
ドラマでは、「梅丸少女歌劇団(USK)」の親会社・社長として大熊熊五郎が登場しますが、実際にシヅ子が入団する「大阪松竹少女歌劇団(OSK)」がモデルであり、その親会社・社長となると言うまでもなく、松竹を創業した双子の兄弟、白井松次郎と大谷竹次郎がモデルでしょう。
阪急の小林一三が1914年に創立した「宝塚少女歌劇団」を真似て、兄の松次郎が、1922年、道頓堀の松竹座を拠点に「松竹楽劇部」を創設。生徒養成所も開設し、「大阪松竹少女歌劇団」が生まれました。
1938年には東京に進出し、「松竹楽劇団(SGD)」(ドラマでは「梅丸楽劇団(UGD)」)が旗揚げすることになります。
⑫作曲家・服部良一→羽鳥善一(演:草彅剛)
大阪の中央区に育った服部良一は、早くから音楽の才能をみせ、19歳で大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。1936年には、コロンビア専属作曲家となり、翌年、淡谷のり子が歌った「別れのブルース」を大ヒットさせて注目されました。
1938年、「松竹楽劇団(SGD)」(ドラマでは「梅丸楽劇団(UGD)」の名で登場)の旗揚げ公演の副指揮者に選ばれた際、稽古場で出会ったのが、笠置シヅ子です。
服部はシヅ子の才能にほれ込み、以後、『東京ブギウギ』などブギシリーズはもちろん、シヅ子が吹き込んだ60曲あまりのほとんどの作曲・編曲を担当するという名コンビとなりました。
2人は、単なる師弟関係を超え、家族ぐるみの付き合いをしていたようです。シヅ子が、空襲で家を焼きだされた際には、服部の家に厄介になったり、地方巡業の際には、幼い娘を服部家で預かってもらったりすることもありました。
服部は、その後も『青い山脈』など数々の名曲を残し、1993年1月30日、東京都品川区の昭和大学病院で呼吸不全により死去。85歳。死後には、作曲家として古賀政男に次ぐ2人目となる国民栄誉賞を授与されました。
墓所は、笠置シヅ子と同じ、杉並区の築地本願寺和田堀廟所にあります。
ちなみに、妻の万里子、ドラマでは麻里(演:市川実和子)とは1935年に結婚し、5人の子どもをもうけました。『ブギウギ』の音楽および主題歌を手掛けている服部隆之は、服部良一の孫です。
⑬作詞家・藤浦洸→藤村薫(演:宮本亞門)
藤浦洸は、服部良一とのコンビで数々のヒット曲を生んだ作詞家です。
淡谷のり子が歌った1937年の大ヒット曲「別れのブルース」によって名声をえ、翌1938年にはコロンビア・レコードの専属作詞家となりました。
笠置シヅ子の「ヘイヘイブギー」や「大阪ブギウギ」などのほか、美空ひばりのデビュー曲「河童ブギウギ」や「悲しき口笛」「東京キッド」などの大ヒット曲を多数手がけました。
ただ、後述するように「東京ブギウギ」の作詞だけは鈴木勝であり、もしかして劇中に登場する宮本亞門演じる藤村薫は、2人の人物を組み合わせたものになる可能性も考えられます。ちなみに、宮本亞門の母・宮本須美子は、久世蘭子の芸名で、松竹歌劇団のレビューガールでした。
藤浦洸は、1979年3月13日、急性肺炎により80歳で死去しました。
⑭作詞家・鈴木勝(まさる)→?
服部良一が、戦時中の上海で知り合った特派員が鈴木勝でした。服部は、既成概念にとらわれない新しい歌詞を欲し、鈴木勝に「東京ブギウギ」の歌詞を依頼したと言います。
しかし実際は、勝のアイデアを元に当時の妻だった歌手・池真理子が作詞したという説もあります。
鈴木勝は、禅についての著作で知られる仏教哲学者・鈴木大拙の養子であり、ハーフとも言われる本当の出自は明らかになっていません。
その後、3度の結婚と離婚、婚外子含め数人の子ども、酒乱、強姦による逮捕など、波乱の生涯を送ったすえ、1971年、咽頭癌により死去しています。
⑮演出家・益田貞信→松永大星(演:新納慎也)
松竹が、帝国劇場で「松竹楽劇団(SGD)」を創設したとき、副指揮者に服部良一を抜擢されたのにあわせ、演出家に選んだのが、当時まだ26歳だった益田次郎冠者こと益田貞信でした。
父は、三井財閥創設者・益田孝の次男である男爵・益田太郎であり、美男子のジャズ・ピアニストでもあった貞信の抜擢は当時ニュースにもなりました。
貞信はシヅ子の才能を高く評価し、またシヅ子も貞信に憧れを抱いていたと言われています。1939年、シヅ子に東宝移籍の話が持ち上がったのは、すでに前年にSGDを辞めていた益田が背後にいたとも言われています。(結局、服部良一の仲介で松竹に残留)
⑯後援会長・南原繁→?
戦後初の東大総長を務めた南原繁は、香川県相生村出身であり、シズ子の実父・三谷陳平の友人だったことが縁で、1950年以降、シヅ子と連絡をとるようになりました。
1951年には、笠置シヅ子の正式な後援会長を引き受け、あたかも父親のような存在として、公私に渡って支えてくれる存在でした。
1974年5月19日、84歳で死去しましたが、シヅ子は大切な恩人としてその死を深く悼んだと言います。
⑰歌手・淡谷のり子→茨田りつ子(演:菊地凛子)
淡谷のり子は、青森の豪商の家に生まれたものの、破産して上京。苦学の末、東洋音楽大学(現在の東京音楽大学)卒業後、コロンビアレコード専属歌手となりました。1937年の「別れのブルース」など、服部良一の手掛けたブルースを次々とヒットさせ「ブルースの女王」と称されます。
「スイングの女王」として人気を博していた、7歳下の笠置シヅ子とは、同じ作曲家を師としていたことから、しばしばライバルとして比較されました。戦後、シヅ子が「ブギの女王」として売れっ子となると、淡谷は公然とシヅ子のことを批判するようになります。
しかし、2人は決して不仲ではありませんでした。1954年、日劇で催された「淡谷のり子、歌手生活二十五年記念ショー」には、シヅ子がゲスト出演。また、シヅ子の娘の亀井ヱイ子も、2人は晩年になっても親交があり、世田谷の自宅へもたびたび淡谷が遊びに来ていたことを告白しています。
淡谷は、晩年まで現役の歌手活動と毒舌キャラを貫き通し、1999年9月22日、老衰により92歳で死去しました。
⑱男役トップスター・水の江瀧子→登場せず?
1928年、松竹は東京に進出し、東京松竹楽劇部を発足させますが、初の東京公演に出演するため上京したシヅ子が出会ったのが、東京組の一期生で、シヅ子より一歳下の水の江瀧子でした。
やがて、「男装の麗人」として一世を風靡する瀧子と、戦後「ブギの女王」に君臨するシヅ子は、松竹がうんだ二大レビュー・スターとして、看板を背負い続けました。
しかしその後、1941年にシヅ子が、翌年に瀧子が松竹を離れて独立すると、2人は違う道を歩むことになります。
瀧子は、兼松廉吉という公私のパートナーを得て、自分の劇団「たんぽぽ」を旗揚げします。1953年に華々しく引退を飾りましたが、翌年に兼松が自殺。瀧子は彼の多額の借金を背負うことになるなど、波乱の後半生を送りました。
2009年11月16日、老衰により94歳で死去しました。
⑲喜劇役者・榎本健一(エノケン)→棚橋健二(演:生瀬勝久)
戦後、シヅ子と服部良一のコンビが再開するきっかけとなったのが、1946年3月、喜劇王のエノケンこと榎本健一とシヅ子が初顔合わせし組んだ芝居『舞台は回る』でした。その後、エノケンとシヅ子は、『歌うエノケン捕物帳』や『エノケン・笠置のお染久松』など、数々の舞台、映画で共演する名コンビとなります。シヅ子は、単なる歌手ではなく喜劇役者としても人気を博しました。
榎本健一は、1919年に浅草オペラ「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に師事し、初舞台。その後、「エノケン一座」を結成し、映画やテレビなどにも出演するなど、戦前戦後を通じて絶大なる人気を博す喜劇スターとなりました。
喜劇王として君臨するも、1962年に病いにより右足の切断を余儀なくされるなど、私生活は苦難に見舞われます。それでも義足をつけて復帰し、1966年には芸術祭奨励賞受賞しました。
1970年1月7日、肝硬変により65歳で死去しました。
⑳歌手・美空ひばり→水城アユミ(演:吉柳咲良)
ブギ全盛の時代、笠置シヅ子に憧れ、最初はモノマネをすることで注目されるようになったのが天才少女、美空ひばりです。2人が初めて会ったのは、1948年、横浜国際劇場の楽屋でした。
美空ひばりはその後、「ベビー笠置」のキャッチフレーズで売り出すことになりますが、その際、笠置シヅ子を、意地悪して、デビューの邪魔をした悪者として仕立て上げます。その裏には、ステージママだったひばりの母・喜美枝、横浜の劇場支配人からマネージャーとなる福島通人、喜美枝の言うままひばりの評伝を書いたライターの旗一平らが仕組んだ思惑がありました。
その後、アメリカ公演に関して、シヅ子と確執が生じたことは、下の⑭マネージャー・山内義富のところで詳しく述べています。
ひばりは、1949年、正式にレコードデビュー。主演した映画『悲しき口笛』も主題歌も大ヒットし、一躍国民的な人気を得ます。1952年になるとブギが下火になってマンボが流行。「お祭りマンボ」を歌った美空ひばりはじめ、江利チエミ、雪村いづみの三人娘全盛期へと至りました。
その後、歌手を廃業するシヅ子に対し、ひばりは国民的歌手へと上り詰めていき、異なる道を歩んだ2人の人生が交差することはありませんでした。
1989年6月24日、特発性間質性肺炎によって呼吸不全を併発し、52歳で死去しています。
㉑マネージャー・山内義富→山下達夫(演:近藤芳正)?
日本コロムビアレコード制作部から吉本興業に移り、戦後、笠置シズ子のマネージャーとして敏腕をふるったのが山内義富です。
美空ひばりのマネージャーだった福島通人(本名・博)とは、吉本興業時代の知り合いであり、美空ひばりが笠置シズ子を出し抜くアメリカ公演の裏では、2人が密約し動いていたと言われています。
ギャンブルとヒロポン中毒だった山内が大金を使い込み、その借金の穴埋めを福島に依頼した見返りとして、シヅ子より一か月早いひばりのアメリカ公演が実現したという説が有力です。
山内の使い込んだお金は、シヅ子が自宅新築のために用意していた350万円(現在の貨幣価値だと1億近く)だったとも言われており、信頼していたシヅ子は大きな痛手を背負いました。
解雇された山内のその後の消息はよくわかっていません。
㉒恋人・吉本頴右(えいすけ)→村山愛助(演:水上恒司)
戦時中の1943年、巡業先の名古屋・太陽館で、楽屋訪問を受け紹介されたのが吉本興業社長・吉本せいの次男・吉本頴右(えいすけ)でした。その後、2人は名古屋から大阪までの汽車に同乗することになり、すぐに恋に落ちます。
頴右は、シヅ子より9歳下の20歳で、当時はまだ早稲田大学の学生でした。夫の吉兵衛、二男六女のうち5人の子どもを亡くしていた吉本せいにとって、残された頴右は大事な跡取りであり、2人の結婚には強く反対しました。
そんな中、東京大空襲により、シヅ子の三軒茶屋の住まいも、市ヶ谷にあった吉本邸も焼失。頴右の叔父にあたる、吉本興業常務・林弘高から紹介され、フランス人宅で同棲をスタートさせますが、そんなおり、頴右が結核を患います。
終戦を機に、頴右は大学を中退し、吉本興業東京支店の社員として働き始めます。1946年秋には、シズ子が懐妊。ところが、頴右は、1947年5月19日、翌月に生まれる娘の顔を見ることなく、肺結核により西宮の実家にて死去しました。24歳。1月、療養のため実家に戻る頴右を東京駅で見送ったのが、2人の最後になりました。
頴右の死後、シズ子はヱイ子を連れて、病気療養中だったせいを見舞いましたが、それが初対面だったようです。実際、孫の誕生にあたり、シズ子とせいの関係は好転していました。
娘のヱイ子によると、シヅ子が生涯、身につけて離さなかったのが一枚の名刺であり、それは、名古屋の劇場で初めて会った際、頴右から手渡されたものだったそうです。
㉓吉本興業社長/頴右の母・吉本せい→村山トミ(演:小雪)
既述のとおり、吉本頴右の母であり、吉本興業(ドラマでは村山興業の名で登場)の創業者が、吉本せいです。
言うまでもなく、2017年から2018年にかけて放送された朝ドラ第97作目『わろてんか』の主人公のモデルとなった人物であり、ドラマでは葵わかなが演じていました。
1950年3月14日、せいも頴右と同じ肺結核により、60歳で死去しました。
㉔東京吉本支社長・林弘高→坂口(演:黒田有)
東京吉本の初代支社長をつとめたのが、吉本せいの実弟にあたる林弘高です。興行師として名をはせ、終戦後には、東京支社を独立させて吉本株式会社を設立し、社長として敏腕を奮います。1963年には大阪の吉本興業の社長に就任しました。
1971年6月27日、咽頭がんにより64歳で死去しました。
吉本興行所属のお笑い芸人コンビ「メッセンジャー」の黒田有が演じます。
㉕娘・亀井ヱイ子→花田愛子(演:小野美音)
1947年6月1日、吉本頴右とシヅ子の間に生まれた一人娘がヱイ子です。2人はまだ未入籍だったばかりか、頴右が、数週間前の5月19日に病死した中、誕生しました。
吉本家からの遺言によりヱイ子と命名されましたが、父の名・えいすけからとったものであることは明らかです。
一時は引退も考えていたシヅ子は、一人娘を育てていくために仕事に復帰。私生活を公開するのは、当時のスターでは普通であり、シヅ子も娘の写真をメディアに公表したり、テレビに出演させたりしたこともありましたが、そんな中、事件が発生します。
1954年3月31日、小学校入学を控えたヱイ子の誘拐・身代金要求の脅迫状が届いたのです。犯人はすぐに逮捕されましたが、以後、シヅ子は娘をメディアに出すことをやめ、普通の娘として育てるよう努めるようになりました。
シヅ子が亡くなったあとの亀井ヱイ子氏のその後については、何も公になっていません。2017年9月、BS11で放送されたドキュメンタリー番組「あのスターにもう一度逢いたいー笠置シヅ子 ブギの女王の隠された愛の物語ー」に一度ゲスト出演されたようで、その時のキャプチャー写真が一部で出回っているのみです。
そんな中、2023年9月15日に発行された新刊『笠置シヅ子 その言葉と人生』の監修者に亀井ヱイ子氏が名を連ねています。つまり、70代半ばを迎えた現在もお元気でいらっしゃるようです。
朝ドラ『ブギウギ』はどこまで事実か?創作か?
以上、ドラマ『ブギウギ』に登場する、あるいは登場しそうな、笠置シヅ子と深く関わる実在人物についてご紹介しました。
ドラマはフィクションをうたっていますので、実在人物をモデルにしたとしても、かなりの改変がなされたり、大胆な設定変更もあるでしょう。
また、美空ひばりなどは、笠置シヅ子のキャリアを語る上で、切っても切れない人物ですが、ドラマでは描かれない可能性が高いと推測されます。
2人の関係については、以下の伝記本に詳しく書かれています。
また、追加情報が明らかになりましたら、こちらの記事も更新したいと思います。
※『ブギウギ』に続く次回朝ドラ『虎に翼』の主人公も実在の女性がモデルです。