渋沢栄一の生涯・子孫・功績・6つのトリビア【青天を衝け】

渋沢栄一 ドラマ

新型コロナウイルスの影響により、およそ1か月遅れの2021年2月14日スタートとなり、同年12月26日まで放送された第60作目NHK大河ドラマが『青天を衝け』です。

主人公は、幕末から明治、さらに大正・昭和初めにかけて活躍した渋沢栄一。

本記事では、ドラマの概要に続き、日本の近代を代表する人物の一人である渋沢栄一について、その生涯や功績、家族や子孫、さらにドラマをもっと深く楽しむためのトリビアも交え、できるだけわかりやすくご紹介したいと思います。

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大河ドラマ『青天を衝け』とは?

激動の幕末、現在の埼玉県深谷市に生まれ、その後「日本資本主義の父」「日本経済の父」とも言われる功績をのこした渋沢栄一の生涯を描く第60作目のNHK大河ドラマが『青天を衝け』です。

タイトル『青天を衝け』とは、渋沢栄一自身が詠んだ漢詩からとられた言葉。

例年なら新年1月に始まる大河ドラマですが、新型コロナウイルスの影響により、2月のスタートとなったのは初めてのことであり、そのため最終回まで全41話の通常より短い回数で終わりました。

■渋沢栄一を演じたのは吉沢亮

渋沢栄一を演じる吉沢亮(よしざわりょう)は、1994(平成6年)年2月1日生まれ、東京都出身です。NHK大河ドラマの主役としては、初の平成生まれの俳優となりました。

2009年、アミューズ主催のオーディションで賞を受賞し、翌年の舞台『BLACK PEARL』で俳優デビュー。2011年の『仮面ライダーフォーゼ』の朔田流星役で人気を博し、2013年にはドラマ『ぶっせん』で初主演をはたしています。

その後は、映画『銀魂』や『リバーズ・エッジ』、朝ドラ『なつぞら』など次々と話題作に出演。2019年の映画『キングダム』では、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞など数々の賞に輝き、若手を代表する実力派俳優として高い評価を得ました。

大河ドラマ主役という異例の大抜擢でした。

■脚本を担当した大森美香と朝ドラ『あさが来た』

2015年から16年にかけて放送された朝ドラ『あさが来た』で、渋沢栄一と同時代を生きた女性実業家・広岡浅子の生涯を見事に描き、高視聴率をたたき出した大森美香が、本作の脚本を担当していることも大きな話題です。

実際、『あさが来た』には三宅裕司演じる渋沢栄一が、ヒロインに強い影響を与える人物として登場しました。

ちなみに、渋沢栄一と広岡浅子はわずか9歳違い。渋沢の方が年上ですが、広岡より長生きしました。

渋沢栄一とは?:生い立ち・功績・晩年をわかりやすく!

1.生い立ちと少年期(~20歳)

渋沢栄一は、1840年(天保11年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で、藍玉の製造販売や養蚕など幅広く手掛ける豪農一家の長男として生まれました。

父について幼い頃から商売を学んだほか、従兄の尾高惇忠のもとで学問を身につけるなど、その後の活躍の礎をこのころ早くに築いたと言えます。とりわけこの時期に学んだ「論語」は、ビジネスと生き方の指針となりました。

2.青年期(20代)

1861年(文久元年)、江戸遊学に出ると、尾高惇忠の影響もあって尊王攘夷に傾倒し、倒幕運動に加わります。しかし、ひょんな運命から一橋慶喜に仕えることになり、やがて慶喜が将軍となると幕臣として重用されるに至りました。

兵士集めや商才で実績を残し、1867年には、慶喜の命を受け、徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会のため渡仏。フランスのみならずヨーロッパ各国を視察し、さまざまな見聞を広めます。大政奉還の知らせに伴い、昭武とともに翌年帰国しました。

3.政府要職・官僚時代(20代終わり~30代初め)

帰国後は、慶喜の計らいで静岡藩の勘定組頭就任を求められましたがそれを断り、日本初の合本会社(現在の株式会社に相当)となる「商法会所」を設立して頭取に。

その後、1869年(明治2年)、明治新政府から要請があり、民部・大蔵省で国立銀行条例の制定などに携わります。租税を米から金納に代える改革、鉄道網整備、また紙幣寮(現在の国立印刷局)では初代トップに就任しました。

しかし、大久保利通らと対立し、1873年、辞職に至りました。

4.実業家時代(30代初め~60代終わり)

大蔵省を退官したのちは、文字通り「日本資本主義の父」という別名にふさわしい数々の功績を成し遂げます。

第一国立銀行(現在のみずほ銀行) や東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)はじめ、複数の銀行の設立など金融業界に始まり、日本製紙、東京ガス、大日本印刷、いすゞ自動車、東京海上日動火災保険、東日本旅客鉄道、清水建設、帝国ホテル、大成建設、キリンビールなど名だたる大企業の前身であるさまざまな企業の設立などに携わりました。

その数は500社を超えると言われていますが、多くの場合、直接経営に携わることは少なく、今でいう産業オルガナイザー、プランナーの役回りでした。

実業界のみならず、東京株式取引所を設立したのも渋沢であり、また後の日本赤十字社など医療面、一橋大学をはじめとする複数の大学の設立など教育面にも尽力しました。

5.晩年と死去(70代~)

1909年(明治42年)、70歳を迎えるのを機に、実業界からの引退を表明します。一部の銀行をのぞいて60を超える役員職をすべて辞任しました。数え77歳の喜寿を迎えた1916年(大正5年)には、第一銀行の頭取も辞任しています。

しかしその後も、とりわけ日米間に関わる民間外交や教育・医療面では積極的な協力を惜しまず、大正時代には、理化学研究所を設立して初代の総代に就任したり、関東大震災の復興のために尽力したりしました。

1928年(昭和3年)10月1日には、渋沢の米寿祝賀会が帝国劇場と東京會館で盛大に催され、日米欧政財界の大物・重鎮が勢ぞろいしています。

1931年(昭和6年)11月11日午前1時50分、91歳で死去(数え年では92歳)。直腸ガンを患い、併発した大腸狭窄症の開腹手術を行いましたが、経過は芳しくなく、死に至りました。



渋沢栄一の家族・子孫

1.妻と妾、子ども

1858年(安政5年)、渋沢栄一が満18歳のとき、親戚である尾高惇忠の妹で従妹にあたる17歳の尾高千代と結婚しました。二人は1男2女をもうけましたが、千代は42歳の若さでコレラにより死去しています。

千代が亡くなるとほどなく、経営が傾いていた豪商一家の娘・伊藤兼子と再婚し、3男1女をもうけています。

さらに、渋沢栄一には複数の妾や愛人、そして非嫡出子がおり、認知した庶子だけで少なくとも4人いると言われています。

家族・親族、さらに彼を取り巻く周囲の人々については、下記の関連記事で詳しく紹介しています。

2.各界で活躍する渋沢栄一の子孫たち

上記の通り、渋沢栄一自身に多くの子がいたこと、500と言われる企業や団体の設立や運営に携わっていたことなどから、来孫までいたる彼の子孫は、実業界を中心に、政界や学術・芸術などさまざまな分野で活躍しています。

曾孫・玄孫・来孫にあたる一部の方々をご紹介します。2023年1月時点の情報です。

●鮫島純子

父は栄一の四男で実業家の渋沢正雄であり、1942年に岩倉具視のひ孫・鮫島員重と結婚しました。つまり渋沢栄一の孫にあたり、2022年9月26日に満100歳を迎えました。

●渋沢雅英

栄一の曾孫で渋沢家の嫡男にあたり、父は日銀総裁や大蔵大臣も務めた渋沢敬三です。長らく渋沢栄一記念財団理事長や東京女学館館長などを務めました。現在97歳です。

●尾高忠明

栄一の庶子である文子の孫。父である尾高尚忠も、兄の尾高惇忠も指揮者・作曲家という音楽一家です。大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督、東京芸術大学音楽学部指揮科名誉教授など務めながら、指揮者として活躍しています。

●渋沢健

栄一の長男・篤二の孫であり、栄一から数えて五代目の玄孫にあたります。シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役CEOであり、自身が創業したコモンズ投信会長でもあります。

●鮫島弘子

栄一の三男・正雄の血を引く玄孫にあたります。エチオピア在住のデザイナーとして活躍しているほか、日経ウーマンオブザイヤーキャリアクリエイト部門賞やAPEC若手女性イノベーター賞など受賞した敏腕女性起業家でもあります。。

●橋本岳

栄一の二女・琴子の血をひく、数えて六代目にあたる来孫です。父は第82・83代内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎であり、現在、5期目となる衆議院議員を務めています。

●澁澤侑哉

上記、渋沢雅英の長女を母に持つ、栄一の来孫にあたるのが澁澤侑哉です。アメリカ人とのハーフであり、『テラスハウス』にも出演したタレント兼モデルとして活躍しています。



『青天を衝け』をより楽しむため知っておきたい事実・トリビア6選

1.渋沢栄一像を見ることのできる場所は?

渋沢栄一の銅像は、その多大な功績を示すかのように、あちらこちらで見ることができます。有名どころを6か所ご紹介します。

①常盤橋公園(東京都千代田区大手町2丁目7-2)

常盤橋公園は、かつて江戸城の城門の一つがあったところであり、1933年(昭和8年)に、渋沢青淵翁記念会によって復旧整備が行われました。

大手町のビジネス街に立つ渋沢栄一像は、戦時中、軍の金属回収のため撤去されましたが、1955年に再建されています。

②東京都健康長寿医療センター公園(東京都板橋区栄町35)

東京都健康長寿医療センターの前身である「養育院」の運営にたずさわり、亡くなるまで約50年の間、院長をつとめていたのが渋沢栄一です。

銅像は1925年(大正14年)に建立され、その除幕式には渋沢栄一本人も出席しました。

③飛鳥山公園(東京都北区王子1-1-3)

大正時代に建築された「晩香廬」のすぐ近くに全身像があります。

「晩香廬」は渋沢栄一の喜寿を記念し、清水組から贈られた茶室であり、国の重要文化財に指定されています。

④JR高崎線深谷駅北口・青淵広場(深谷市西島町1)

青淵とは渋沢栄一の雅名です。1996年(平成8)に新しく建立された銅像で、それ以前にあった古いものは、渋沢栄一記念館に移設されています。

銅像と同年に完成した深谷駅の建物は、東京駅を模したものであり、ともに深谷製のレンガが使用されています。レンガを製造した日本煉瓦製造株式会社も渋沢栄一が設立した会社です。

⑤旧渋沢邸「中の家」(深谷市血洗島247-1)

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は、渋沢栄一の生家があった場所に、栄一の妹夫婦が1895年(明治28年)に建てた屋敷です。

庭の一角に、1983年に建立された若き日の渋沢栄一の銅像があります。

⑥渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市下手計1204)

上記のとおり、かつて深谷駅前にあったものは移設され、渋沢栄一記念館で見ることができます。どこか愛嬌のある姿がこの銅像の特徴です。

渋沢栄一記念館には、ゆかりの品や写真など、たくさんの資料が展示されているほか、渋沢栄一のリアルなアンドロイドが講義する姿を観ることもできます。

2.渋沢栄一の代表的著作『論語と算盤』

渋沢栄一には複数の著作がありますが、代表作の一つとも言えるのが1916年(大正5年)に発表した『論語と算盤』です。

渋沢の思想の根底を支えた経営哲学について説き、経済に関わる者が選ぶべき道を指示した現代人必読の書です。

読みやすい現代語訳のものやコミック版もあります。

3.渋沢栄一の墓はどこにある?

渋沢栄一の墓は、東京都台東区にある谷中霊園にあり、乙11号1側に広々とした渋沢家墓所がもうけられています。

また、同じ谷中霊園には、渋沢栄一と深いつながりのあった徳川慶喜の墓所もあります。1913年(大正2年)11月22日に死去した徳川慶喜の葬儀では、渋沢栄一が葬儀委員長をつとめました。

4.『青天を衝け』の音楽を指揮したのは栄一の子孫・尾高忠明

ドラマのテーマ音楽を指揮しているのは子孫の項目でも紹介した、栄一の曾孫にあたる尾高忠明です。演奏はNHK交響楽団。

ちなみに、兄である作曲家の尾高惇忠は、ドラマの第一回が放送された2日後の2021年2月16日に、76歳で他界しました。

5.新しい一万円のお札の肖像となる渋沢栄一、実は……

渋沢栄一は、これまで何度も紙幣の肖像候補にあがってきましたが、ついに2024年に執行される紙幣改定により、新しい一万円札の肖像となることが決定しました。

しかし、渋沢が紙幣の肖像となるのは実はこれが初めてではありません。

中央銀行がまだなかった1902年から1904年にかけての大韓帝国では、第一銀行の在韓支店が第一銀行券を発行しており、その1円・5円・10円券には当時頭取だった渋沢栄一の肖像が描かれていたのです。

異例の放送となった大河ドラマ『青天を衝け』

前作『麒麟がくる』が新型コロナウイルスの影響で撮影が大幅に遅れたため、NHK大河ドラマとして初めて2月の放送スタートとなった『青天を衝け』。さらに、東京オリンピック・パラリンピック開催と重なって5週間休止。最終回の放送が例年通り12月26日と全41話の短さとなり、新型コロナウイルスの影響を直接うけた、良くも悪くも異例の大河ドラマとなりました。

しかし、渋沢栄一の新紙幣が発行される2024年には、本ドラマも再び注目を集めるかもしれません。

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