朝ドラ『あんぱん』のモデル:13人の実在人物/その後/実話

朝ドラ『あんぱん』モデル ドラマ

朝ドラ(NHK連続テレビ小説)第112作『あんぱん』は、国民的人気アニメ『アンパンマン』の原作者・やなせたかしとその妻の暢(のぶ)の生涯を描くオリジナルドラマです。

中園ミホによる脚本は、フィクションを交えたオリジナルストーリーであり、多くの事実とは異なる「創作」がありますが、それでも主人公の2人以外にも、多くの登場人物に実在のモデルがいます。

そこで本記事では、13人の登場人物の人物像、実話やその後などについてご紹介しましょう。

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朝ドラ『あんぱん』は事実と創作を織り交ぜたオリジナルストーリー

2025年3月31日にスタートした朝ドラ112作目の作品『あんぱん』の主人公・柳井嵩と朝田のぶのモデルは、上述の通り、やなせたかしと妻の暢です。

とはいえ、物語にはかなり大胆に創作が盛り込まれており、例えば、ドラマでは幼馴染の二人ですが、実際に出会うのは戦後就職した勤め先であることなど、あまりの嘘にどうやら一部では賛否両論もあるようです。

登場人物に関しても、阿部サダヲ演じる屋村草吉などは架空の人物でしょう。明らかに実在人物をモデルしているキャラクターとして、以下の13人をご紹介します。

朝ドラ『あんぱん』のモデルとなった実在人物13人のその後と実話

北村匠海演じる柳井嵩のモデルが、言うまでもなくやなせたかしこと本名・柳瀬嵩です。

大正8年(1919年)2月6日、東京村北豊島郡滝野川町西ヶ原(現在の北区西ヶ原)において、父・清、母・登喜子の長男として生まれました。

やなせたかしの生涯、生い立ちから晩年、死去と墓所などについては、下記の別の記事で詳しく紹介していますので、こちらをご覧ください。

やなせたかしの父・柳瀬清
出典引用:別冊太陽『やなせたかしーアンパンマンを生んだ愛と勇気の物語』平凡社刊

柳瀬家は、高知県香美郡在所村(現在の香美市香北町朴ノ木)において長きに渡り庄屋を務めてきた旧家であり、の父・柳瀬清は、7人きょうだいの次男でした。高知県立第一中学校を卒業後、県費留学生として上海の東亜同文書院(日本企業幹部育成を目的に設立された専門学校)に学びます。卒業後、そのまま上海の日本郵船に就職しました。

帰国後は、講談社で編集の仕事につき、またその頃、谷内登喜子と出会って結婚。嵩がうまれた翌年の大正9年(1920年)には東京朝日新聞社に引き抜かれて新聞記者となりました。大正12年(1923年)には、上海支社に駐在となり、登喜子、嵩、次男の千尋も同行します。

しかし、福建省・厦門(あもん)の特派員として派遣されることになったため、妻子は帰国。清は、その厦門で大正13年(1924年)5月16日、32歳の若さで病死しました。嵩5歳のときでした。

嵩の母・柳瀬登喜子、旧姓・谷内登喜子(下の写真右)は、朴ノ木に近い永野という集落に広い田畑を所有する資産家の次女として生まれました。

高知県立第一高等女学校在学中に最初の結婚をしますがすぐに離縁。才色兼備、社交的で華やかなことを好む登喜子は、洗練された都会的な清との縁談に乗り、再婚しました。上海で身ごもり、東京で嵩と千尋をもうけています。

夫の死後、子どもたちを連れて帰郷します。高知市追手筋の借家に暮らしますが、このとき、次男の千尋は、伯父にあたる柳瀬寛の養子に出されました。

登喜子は、生活のための習い事などで家を空けることも多く、嵩は祖母・テツに面倒をみてもらったりしていたようです。やがて登喜子の再再婚が決まり、嵩も伯父に預けられることになりました。再再婚の相手は、東京のエリート官僚であり、世田谷に暮らしていたようです。

その後の登喜子の行く末について、詳しいことはわかっていませんが、夫の死後、下宿を営み、嵩が上京したとき一時はそこに住むなど母子の交流は続いていたと言われています。ただ、派手好きなこと、子どもをやすやすと手放したことなどから、親戚筋の間で登喜子の評判は決してよいものではなかったようです。

左/柳瀬登喜子・右/柳瀬千尋
出典引用:別冊太陽『やなせたかしーアンパンマンを生んだ愛と勇気の物語』平凡社刊

嵩の2歳下の弟が柳瀬千尋(写真左)であり、名前はドラマでも同じです。大正10年6月15日生まれ。成績優秀かつハンサムであり、嵩は弟に対して常にある種の劣等感を抱いていたようです。

上述のとおり、幼い頃に、子どものいなかった伯父夫婦の養子となります。生前の父と伯父の間でかねてからの約束だったようです。京都の第三高等学校を卒業後、医師ではなく法律の道を選んで京都帝国大学に進学しました。

ところが、在学中、自らすすんで海軍予備学生となり、少尉として駆逐艦「呉竹」に乗船。昭和19年(1944年)12月30日、フィリピン沖のバシー海峡で撃沈され戦死しました。享年23歳。

竹野内豊が演じた伯父・柳井寛のモデルである柳瀬寛は、柳瀬家の長男で、清の兄にあたります。高知県立第一中学校を卒業後、京都府立医学専門学校に進み、医師となって御免町で「柳瀬医院」を開業しました。

父(嵩の祖父)の治太郎が放蕩者で、財産を浪費したため、寛はきょうだいを養うため、堅実な医者を選んだと言われています。多趣味で非常に進んだ考えの持ち主だったようですが、子どもがおらず、当初は、嵩が柳瀬医院の跡を継ぐことを望んでいました。

ちなみに、嵩がひきとられた時には、先に養子となっていた千尋のほか、寛の末弟でまだ中学生だった正周(まさちか)を養って同居させており、嵩とは兄弟のような関係だったようです。

嵩が東京で卒業制作に取り組んでいたとき、病により急死。嵩は危篤の知らせをうけ、夜行列車でかけつけましたが、間に合わなかったようです。

戸田菜穂が演じた寛の妻・千代子については、「キミ」という名前だったこと以外、詳しいことはわかっていません。

ただ、嵩と千尋を平等に実子のようにかわいがり、大切に育ててくれた女性のようで、文字通り「育ての母」だと言えるでしょう。

瞳水ひまりが演じた柳井家の女中・宇戸しんにも、実は、朝やというモデルがいます。

母の再再婚により伯父夫婦に引き取られた小学生の嵩ですが、引け目を感じてなかなか心を開けないでいたところ、心配し優しく接してくれたのが、住み込みの女中・朝やだったようです。

内緒で飴をくれたり、夜中におんぶして駄菓子屋に連れていってくれたりしたらしく、後年、嵩は彼女の優しさを思い出し、「朝やの星」という詩を残しています。



今田美桜演じる朝田のぶのモデルが、後にやなせたかしの妻となる池田暢です。

1918年、父・池田鴻志の仕事の関係で大阪に生まれ、兄が一人、妹が二人います。父は、暢が6歳の頃に亡くなりますが、暢はそのまま大阪の旧制阿部野高等女学校(現在の大阪府立阿倍野高等学校)を卒業。

その後の小松総一郎との最初の結婚と死別、嵩との出会いと再婚、晩年と死については、以下の別の記事で詳しく紹介していますので、そちらをご覧ください。

加瀬亮が演じていたのぶの父・結太郎のモデルは言うまでもなく、暢の実父である池田鴻志(いけだこうし)です。

池田鴻志は、明治18年(1885年)、高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)の裕福な家に生まれました。高知商業学校(現在の高知商業高等学校)から、関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、いったん故郷に戻ります。大正5年(1916年)に「鈴木商店」系列の炭鉱会社に入社し、ほどなく「鈴木商店」大阪支店の木材部に移りました。

「鈴木商店」は当時日本一の貿易商であり、鴻志は言わばエリート商社マンだったことになります。

台湾の嘉義駐在、さらに大正8年(1919年)には釧路出張所の所長と、出世街道を歩んでいましたが、大正13年(1924年)11月11日(1927年との説もあり)、朝鮮に出張中に急死しました。ちなみに、暢が生まれたのは台湾と釧路駐在の間のタイミングです。

吉田鋼太郎演じる祖父・釜次、浅田美代子演じる祖母・くら、江口のりこが演じているのぶの母・羽多子、妹の蘭子とメイコにももちろんモデルがいますが、詳しいことは全くわかっておらず、石材屋とあんぱん屋を営んでいたこと含めすべて創作だと思われます。

暢の最初の夫となるのが小松総一郎であり、ドラマでは若松次郎の名で登場しました。

暢が女学校卒業後、東京で出会った小松総一郎は、高知県高知市出身、神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)を優秀な成績で卒業後、日本郵船に入社していました。

2人は昭和14年(1939年)に結婚。その時、総一郎26歳、暢20歳でした。総一郎はハイカラな紳士タイプだったらしく、ドラマで描かれた通り、ライカのカメラを暢に贈ったのも実話のようです。

結婚後ほどなく総一郎は召集になり、昭和18年(1943年)に輸送船「菊丸」主機保守として乗船します。しかし航海中に結核を発症し内地送還。昭和20年(1945年)10月7日、死去しました。

未亡人となった暢が、その後「高知新聞社」で出会うのが嵩です。



ドラマの中で嵩が進学した「東京高等芸術学校」のモデルは「東京高等工芸学校」、そこで出会った恩師で山寺宏一が演じた座間晴斗のモデルが、杉山豊桔(すぎやまとよき)です。

東京高等工芸学校は、大正10年(1921年)、京都に継ぎ2番めに開設された学校で、卒業生の多くは企業の宣伝部や広告会社などに就職していました。嵩が学んだ工芸図案科の担当教授だったのが杉山豊桔でした。

「教室にこもらず、銀座で遊びなさい」「デザインの学校に入ったからと言って、デザイナーでなくても、小説家でもタップダンサーでも自由に好きな道に進めばいい」といった杉山の指導は、嵩の考え方、その後の生き方に大きな影響を与えました。

杉山豊桔は、工芸意匠の研究者であり、「朝鮮工芸」や「北支工芸」に関する研究や出版で知られていますが、没年など詳しいことはわかっていません。

アニメ『それいけ!アンパンマン』の声優といったらこの人、戸田恵子が演じることで大きな話題をよんでいる、高知出身の代議士・薪鉄子。のぶが「高知新報」で働いているときに出会い、その人生に大きな影響を与えるとされています。とすると、薪鉄子のモデルは高知出身の代議士・佐竹晴記ではないかと推測しています。

実際、暢が「高知新聞」を辞め、上京するきっかけとなったのが、社会党の代議士に秘書として雇用されたことでした。代議士の名前は明らかにされていないようですが、当時の高知出身の日本社会党代議士といえば、佐竹晴記の名前に行き当たります。

佐竹晴記は、昭和11年(1936年)に初当選を果たした後、衆議院議員として計7回当選しました。戦後は、日本社会党に属し昭和22年(1947年)の片山内閣では司法政務次官を務めました。1962年4月24日、高知の自宅において65歳で死去しています。

性別を女性に変更し、『アンパンマン』に登場する「鉄火のマキちゃん」から命名していることから、キャラクター自体は大幅な創作が盛り込まれるものと推測できます。

バンドMrs. GREEN APPLEの大森元貴が演じることが発表されている役名いせたくやのモデルは、作曲家のいずみたくです。

『アンパンマン』により漫画家として大ブレイクする前、やなせたかしは舞台美術、作詞、放送作家などさまざまなジャンルの仕事につき、長らく下積みのような年月を送っていましたが、そうした時期に出会い、一緒に仕事をした一人が作曲家いずみたくでした。

1960年、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の制作現場で、舞台美術を担当していたやなせといずみたくが出会います。その後も二人の親交は続き、2人の共同作品に『アンパンマン』のミュージカル化作品、またやなせが作詞しいずみたくが作曲した名曲「手のひらを太陽に」などがあります。

いずみたくは晩年、作曲家と並行して、参議院議員として政治活動を行っていましたが、任期中の平成4年(1992年)5月11日、肝不全により62歳で死去しました。



朝ドラ『あんぱん』に登場するものの架空と思われる人物

以上、ドラマに登場するキャラクターの中で、モデルとなっている実在人物13人を取り上げ紹介しました。

既述の通り、暢の実家があんぱん屋を営んでいたという事実は確認できず、よって阿部サダヲが演じている屋村草吉はおそらく架空でしょう。

また嵩の同級生にして大の親友となる高橋文哉演じる辛島健太郎、また暢に2人の妹がいたのは事実ながら、蘭子の婚約者で細田佳央太が演じた原豪も架空の可能性が高いでしょう。

まだドラマは中盤に差し掛かったばかりであり、今後判明する事実がありましたら、記事を更新していきたいと思います。

ドラマのロケ地について紹介した記事もありますで、ご覧ください。

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