『マエストロ:その音楽と愛と』知られざる実話/登場人物の現在

マエストロ 映画

先行劇場公開に続き、Netflixで2023年12月20日に配信された映画『マエストロ:その音楽と愛と』。

『アリー スター誕生』に続く、ブラッドリー・クーパーの長編監督第2作目かつ主演作品であり、巨匠レナード・バーンスタインの半生を描いた伝記映画です。

本記事では、映画のあらすじなど簡単な概要にくわえ、映画では描かれなかった実話、実在する主要登場人物10人のその後と現在についてご紹介したいと思います。

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映画『マエストロ:その音楽と愛と』について

映画『マエストロ:その音楽と愛と』は、世界的指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインと妻フェリシア・モンテアレグレの情熱的な半生を描いた伝記映画です。

フェリシアをキャリー・マリガンが演じ、ブラッドリー・クーパーがバーンスタイン役と監督も務めています。

プロデューサーに名を連ねているのが、マーティン・スコセッシとスティーヴン・スピルバーグという2人の大御所。また、映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』においてゲイリー・オールドマンの特殊メイクを担当し、アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞に輝いた辻一弘(カズ・ヒロ)による、バーンスタインの特殊メイクも必見です。

もちろん全編に散りばめられた、バースタインの美しく壮大な音楽も、大きな見どころとなっています。

■あらすじ(閉じべーじに結末ネタバレあり)

映画は、晩年のレナード・バーンスタインがメディアのインタビューを受け、過去を回想する形で始まります。

1943年11月14日、病気になった名指揮者ブルーノ・ワルターの代役として、急遽ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の指揮をとり、一躍名声を確立したレナード・バーンスタイン。

順調にキャリアを築く中、パーティーで女優のフェリシア・モンテアレグレと出会います。2人はすぐに惹かれあい、やがて結婚して3人の子どもをもうけるのでした。

ところが、レナードの派手な男性関係がゴシップを賑わすなど、結婚前からすでにそのことに気づいていたフェリシアも、ひどく悩まされることに……。

レナードと一人の若い男性トミーの関係が深いものとなったことで、2人は激しく衝突。しかしそれでも、互いを必要としていることを認識し合うのでした。

そんな中、フェリシアに肺がんが見つかります。レナードは仕事をキャンセルして看護にあたり、最後を看取るのでした。

その後、精力的に仕事に取り組みつつ、あいかわらず男性との関係も変わらない晩年の姿が描かれ、冒頭に戻って映画は幕を閉じます。



主要登場人物(キャスト)10人のその後と現在、映画では描かれなかった実話

バーンスタインとフェリシア、3人の子どもなど、映画に登場した主要な実在人物10人の略歴、その後と現在を紹介しつつ、映画では描かれなかった、あるいはそれとなく示唆されただけに終わった実話について触れたいと思います。

バーンスタインは、1918年8月25日、ウクライナ系ユダヤ人の移民2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれました。ハーバード大学、さらにカーティス音楽院で学び、卒業後の1943年に、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(のちにニューヨーク・フィルハーモニックに改名)の副指揮者に就任しました。

1958年には、アメリカ生まれの指揮者としては初となる音楽監督に就任し、同フィルとバーンスタインの俗にいう黄金時代を築きました。

1969年に同フィルの音楽監督を退任した後は、名だたる世界各国のフィルで客演。1990年8月19日のタングルウッド音楽祭が最後の指揮の場となり、同年10月14日、肺がんによりニューヨークで死去しました。72歳。

私生活では、学生の頃から男性遍歴重ね、1951年にフェリシアと結婚して3人の子どもをもうけながら、亡くなるまで複数の男性と関わり続けました。晩年のおよそ10年間に特に深い間柄にあったのは、ある日本人だったことも明らかになっています(下の書籍に詳しく記されています)。

フェリシア・モンテアレグレは、1922年2月6日、コスタリカのサンホセ生まれ。父はアメリカ人、母はコスタリカ人です。父の仕事の関係でチリで育ち、その後ニューヨークで演技とピアノを学びました。

女優として1946年にブロードウェイ・デビュー、1949年からはテレビドラマにも数多く出演するようになります。そうした中、1946年、パーティーで出会ったのがレナード・バーンスタインでした。婚約は一度破談し、フェリシアは俳優のリチャード・ハートとつきあいましたが、1951年にハートが死去するとレナードと復縁。1951年9月9日に結婚しました。

2人は3人の子どもをもうけたほか、レナードが頻繁にホームパーティーに招く、さまざまな著名人や芸術家たちとフェリシアも親交を深めました。また当時はファッション・アイコンとしても有名でした。

結婚する前から、レナードがホモセクシュアルであることに気づいており、一度破局したのもそれが理由だとされています。結婚をきっかけに、男性との遊びをやめるだろうと考えていたようですが、上記のとおり、レナードが男性との関係を断つことはありませんでした。

フェリシアは、1978年6月16日、肺がんによりニューヨークで死去。56歳でした。

1952年9月8日、レナードとフェリシアの間に生まれた長女がジェイミーです。

ジェイミーは、女優、映画監督、作家、ナレーターとマルチな活動をしています。女優としては、1981年の映画『エンドレス・ラブ』に出演、監督としては、2014年のドキュメンタリー映画『Crescendo! The Power of Music』を手掛けました。

2018年には回顧録『FAMOUS FATHER GIRL — A Memoir of Growing Up Bernstein』を発表して話題になりました。

1955年7月7日、レナードとフェリシアの間に生まれた長男がアレクサンダーです。

俳優として、1983年の映画『Daniel』、1985年のドキュメンタリー映画『バーンスタイン《:ウェスト・サイド・ストーリー》メイキング・オブ・レコーディング』などに出演。私生活では、1985年に女優のケリー・アームストロングと結婚しましたが、翌年に離婚しています。

1962年2月28日、レナードとフェリシアの3人の目の子どもとして生まれた次女がニーナです。

ニーナも、マサチューセッツ州ケンブリッジを拠点にした「American Repertory Theatre」で女優として活動していましたが、その後は、父の遺産を管理する仕事に携わっています。

レナードは3人きょうだいの長男であり、妹がシャーリー(1枚目写真奥の女性)、弟がバートンです。映画にも登場したシャーリーは、1923年生まれで5歳下。

プロデューサーとして、1955年から57年まで続いたテレビドラマ『The Big Surprise』や、1964年の映画『The Third Secret』などを手掛けました。

1998年5月20日、74歳で死去しています。



デイヴィッド・オッペンハイムは、クラリネット奏者であると同時に、50年代は、コロンビア・レコードにおいてクラシック担当のプロデューサーとしても活躍しました。その後はCBSに移り、1969年にはニューヨーク大学ティッシュ芸術部の第二学部長に就任し、1991年まで務め上げています。

1940年代の若い頃、ニューヨークでバーンスタインと知り合い、一時恋愛関係にありました。その後、オッペンハイム自身は3度の結婚をしていますが、最初に女優のジュディ・ホリデイと結婚したのは、バーンスタインから偽装結婚するようアドバイスをされたことがきっかけとも言われています。

2007年に85歳で死去。ちなみに、長男のジョナサン・オッペンハイムは、ドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない。』などを手掛けた映画編集者兼プロデューサーとして活動していましたが、2020年に死去しています。

ジェローム・ロビンズは、1918年10月11日生まれ。若い頃は、名門「アメリカン・バレエ・シアター」のソリストとして名をはせます。バーンスタインと知り合い、バーンスタインが音楽を手掛けたバレエ『ファンシー・フリー』で振付家としてデビューし、一躍注目されました。

その後は、『王様と私』『パジャマゲーム』『ジプシー』『屋根の上のヴァイオリン弾き』など数々のブロードウェイ・ミュージカルを手掛け、トニー賞を5度受賞。1961年にロバート・ワイズと共に監督を手掛けた映画『ウエスト・サイド物語』では、アカデミー監督賞を受賞するなど、振付家・監督・演出家として華々しい活躍をしました。

1998年7月29日、脳卒中により、79歳で死去。晩年まで現役であり続けました。ホモセクシュアルであり、俳優のモンゴメリー・クリフトら数々の男性と関係を持っていました。

1971年、バーンスタインが友人宅で開かれたパーティーで紹介されたのが、サンフランシスコのクラシック音楽専門ラジオ局で音楽ディレクターをしていたトーマス(トミー)・コスランでした。

映画では、フェリシアが2人のキスを目撃するシーンがありますが、それは創作のようです。

2人はすぐに恋に落ち、一緒に旅行するなど親密な恋愛関係が長く続きます。フェリシアが2人の関係に気づいたのが1976年。自分かトミーのどちらかを選ぶよう言われたレナードは、トミーとカリフォルニアで同棲する選択をしました。

ところがそれからほどなく、フェリシアが肺がんを発症。レナードはトミーと別れ、フェリシアのもとに戻って看病にあたりました。翌1978年にフェリシアが死去した後も、1986年にトミーがAIDSにより死去するまで、親しい友人であり続けました。レナードは、トミーの家賃や治療費を負担し、病床を見舞っていたようです。

1900年11月14日生まれのアーロン・コープランドは、ジョージ・ガーシュインと並ぶ、20世紀のアメリカを代表する大作曲家の一人です。

パリ留学を経て、『ビリー・ザ・キッド』『ロデオ』『アパラチアの春』などのバレエ音楽、その他、アメリカらしさを追求したさまざまなクラシック音楽を発表して名声を確立。また映画音楽も担当し、1949年の映画『女相続人』では、アカデミー賞の音楽賞を受賞しました。

私生活はホモセクシュアルでしたが、それを公にすることはありませんでした。バーンスタインが若い頃から交流があり、2人は単なる友人をこえ、同性愛関係にあった時期あると言われています。他にも、ピアニストのポール・ムーア、ダンサーのエリック・ジョンズらと関係を持ち、特に写真家のヴィクター・クラフトとは長い間、恋愛関係にありました。

1990年12月2日、アルツハイマー病と呼吸不全により、90歳で亡くなりました。



『マエストロ:その音楽と愛と』の評価と感想

映画『マエストロ:その音楽と愛と』は、AFIが2023年の映画ベスト10の1作に選んだほか、2024年1月に発表されるゴールデングローブ賞でも、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞の4部門にノミネートされるなど、好評価を得ています。

ブラッドリー・クーパーの大きな鼻の特殊メイクに対し、ユダヤ人を揶揄しているとの批判があがりましたが、バースタインの3人の子どもが連名で声明を発表し、クーパーを擁護しました。

子ども3人ともまだ存命で、本映画製作に多少なりとも関わっている可能性を考えると、バーンスタインの裏の顔を強調しすぎる内容は、難しかったであろうことは推測できます。個人的には、そうした点がやや物足りなく、また上記のような実話を知ると、少々美談に終わりすぎているように思いますが、映画としては力のこもった力作であることは確かでしょう。

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