映画『ボヘミアン・ラプソディ』の記録的大ヒットで、再び世界的な注目を集めたクイーンのフレディ・マーキュリー。1991年にエイズにより他界してから、およそ30年がたちました。
同映画にも登場したフレディの最期を看取った恋人がジム・ハットン。そんな彼が、1994年に発表した回顧録が『フレディ・マーキュリーと私』です。
本記事では、同著作に記された印象的な言葉を引用しながら、フレディの知られざる顔とジム・ハットンとの愛、さらにフレディの昔の恋人だった女性メアリー・オースティンとの確執を中心に紐解きたいと思います。
フレディ・マーキュリー最後の恋人ジム・ハットンとは?
Freddie Mercury and Jim Hutton, 1985 pic.twitter.com/1zfFEzsg1X
— Marina Amaral (@marinamaral2) March 17, 2019
1983年に出会い、その後フレディが亡くなるまで約7年の間、最愛の恋人としてそばに寄り添い続けた男性がジム・ハットンです。
ジム・ハットンは1949年1月4日、アイルランド生まれで、1946年9月5日生まれのフレディより約2歳半年下になります。
フレディと出会った当時は、ロンドンのサヴォイ・ホテルで美容師として働いていましたが、のちにそれをやめ、フレディの自宅に同棲して庭師を務めながら、パートナーとして7年を過ごしました。
ジム・ハットン自身もHIVポジティブを患っていましたが、発症は免れ、2010年1月1日、肺がんによって60歳で死去しています。
ジム・ハットンが1994年に発表した本『フレディ・マーキュリーと私』
『フレディ・マーキュリーと私』(原題:Mercury and Me)は、フレディとの出会いから死別までを綴った回顧録です。
未公開写真も多く収録され、二人の愛の軌跡を軸に、フレディの知られざる素顔、またフレディの昔の恋人メアリー・オースティンとの関係など、ファンにとって実に興味深い内容となっています。
発売に合わせ、イギリスのテレビ番組に出演しインタビューに答えている映像も残っています。その中で、執筆の動機や書くことでフレディの死の喪失と向き合うことができたことを告白しています。
本作で明かされた事実は、映画『ボヘミアン・ラプソディ』で描かれた内容とは、特に時系列の面などで、多くの相違点があることも見逃せません。
回顧録を9つのポイントから読み解く
写真は、フレディを挟んで、向かって左側の白い洋服の男性がジム・ハットン、右から2人目の黒い洋服の女性がメアリー・オースティンです。
一番左のピンクの帽子を被った男性がパーソナル・アシスタントだったピーター・”フィービー”・フリーストーン、前列の黒いタンクトップの男性も同じくパーソナル・アシスタントだったジョー・ファネリです。ジムとともに、フレディを最後まで看護し続けた三人の男性のうちの二人です。
①フレディ・マーキュリーとジム・ハットンの出会い・馴れ初め
二人は、1983年にロンドンのゲイ・クラブ「ココバーナ」で出会いました。フレディが、ドリンクをオファーする形で声をかけましたが、恋人がいたジム(当時34歳)は冷たく断りました。
その後、一度レストランで目撃した程度で進展はありませんでしたが、1985年、ゲイ・クラブ「ヘブン」で再び声をかけられ、恋人と別れて独身となっていたジムが受け入れました。フレディの自宅(ケンジントンにあるスタフォード・テラス12番地)で一夜を過ごし、翌朝、電話番号を交換して三か月後、フレディからの電話で正式な交際が始まりました。
「フレディは初めて僕を見たときから好きになったのだと言った。僕が彼の大好きなピンナップ俳優に似ているから。バート・レイノルズ! 彼は大柄で強そうな男が好きだった」
『フレディ・マーキュリーと私』ジム・ハットン著、島田陽子訳、ロッキング・オン発行。以下の引用すべて同著作から。
当時、ジムは音楽に疎く、フレディがクイーンのボーカリストとして世界的な有名人であることを知らなかったようです。1985年7月の「ライブ・エイド」で、初めてフレディが歌う姿を見ることになりましたが、ジムにとってはライブ自体が初めての体験でした。
②フレディの新居「ガーデン・ロッジ」で同棲生活
フレディが購入していた「ガーデン・ロッジ」(ローガン・プレイス1番地)の改築が終わり、そこで同棲生活を開始します。
本作には、二人がときに喧嘩と仲直りを繰り返しながらも、次第に関係を深めていくプロセスが丁寧に描かれています。
「何年もロンドンのゲイ・シーンで生きてきて、だれかとの関係が終わったとき人はほんとうに傷つきやすいものだと身に染みてわかっていたから。関係が終わるたびに新しいバリヤーができて、その壁を崩すのが難しくなる。だけどいつしかフレディはその壁をすっかり壊してしまった。僕たちがふたりとも同じものを恐れていたのだと思う……孤独を」
③クイーンのメンバーについて
全編を通して、クイーンのメンバーについて悪口を書いた部分は一切ありません。ジムとの関係も良好だったようです。
「ロジャーとフレディは何年も前にケンジントン・マーケットで古着の店をやっていたこともあり、完全なソウル・メイトだった。ふたりはよく一緒に座ってけらけら笑っていた。ブライアンはとても頭の切れる人で、自分の音楽については細かいところまで気を配る。でも僕が一番好きになったのはジョン・ディーコンだった。彼はバンドの中で一番もの静かな男だった。驚くほど控えめで、穏やかで、気取らない人だ」
④フレディと日本
何度も来日し、大変な親日家として知られていたフレディ。二人は1986年9月から10月にかけ、日本で3週間の休暇を過ごしており、その様子が丸一章を割いて事細かく記されています。
フレディと公私に渡り深い交流を続け、来日時はさまざまな世話役となっていた渡辺プロダクションの渡辺美佐氏から提供をうけたというたくさんの写真が掲載されており、ジムは「生涯最高の休暇」と形容しています。
到着するなり、ホテル・オークラにチェックインする前に「大きなデパート」に直行し、閉店後の店内で4時間にわたり買い物を続けたというエピソードなど……。
「フレディは夜通しでも買い物しかねない勢いだった。日本のものならなんでも大好きなので、目に入るとすべて自分のものにしたくなるようだった」
お気に入りのブティック「JUN」での買い物、歌舞伎や劇団四季「キャッツ」観劇、新幹線に乗って京都と大阪旅行、鯉や伊万里焼、火鉢に魅了され、散財を続けます。
しかし、楽しい休暇を終えて帰国すると、フレディが極秘にエイズ検査をしたが陰性だったというゴシップ記事が二人を待ち受けていました。
⑤フレディのエイズ判明のいきさつ
1987年のイースター前、アイルランドへ里帰り中だったジムが、連絡を受けて急遽ロンドンに戻ります。フレディから、検査の結果、エイズであることが判明したと伝えられました。
「フレディはベッドルームにいた。僕がベッドに横たわって片手をまわすと、フレディは僕に体をすり寄せてきて、前の日に言えなかったことを話しはじめた。彼は自分の肩の小さな傷痕を指した。親指の爪ほどの大きさで、小さく二針痕があった。医者が彼の皮膚を取って検査をしたのだ。その結果がちょうど戻ってきた。彼はエイズだった」
しかし、ジムはそれを恐れるどころか、そのままを受け入れます。
「『もしきみが僕を置いてガーデン・ロッジを出ていきたいのなら止めない。その気持ちはわかるから』
『だって僕はきみを愛してるんだ』僕は言った。『きみを見捨てたりしない、どんなときだって。この話はもうよそう』
フレディが顔を上げて僕を見た。そして僕たちはしっかりと抱き合った」
ほどなく、フレディのマネージャーだったポール・プレンターが、タブロイド紙にネタを売り、フレディの恋人二人がエイズで死亡という記事が掲載されます。この記事がもとで、フレディとプレンターは絶縁しました。
ちなみに、ジムも1990年にひそかに検査を受け、HIV陽性であることが判明しましたが、闘病中のフレディはもちろん誰にもそれを告げなかったようです。
⑥フレディ、最後の旅
フレディの病状がおもわしくない中でも、クイーンとしての活動を続けていましたが、次第に状況は深刻化していきます。
「フレディの45歳の誕生日は、おそらく彼の人生の一番静かなものだったろう。彼は自分の調子がよくないことを十分承知していた。自分の人生が終わりに近づいていることをもはや隠しきれないとよくわかっていた。(中略)最後の誕生日に彼がみんなに求めたのは、彼をそっとしておいてくれることだった」
やがて、二人は最後の旅となるスイスに向かいます。フレディが所有していたモントルーのレマン湖を見下ろす高級マンション「レ・トゥーエル」のペントハウスで穏やかな時間を過ごしました。
「彼がスイスへ旅に出たのは、静かなところでいくつかの最後の決断を下すためだった。(中略)治療をやめて死ぬ道を選ぼうと決めたのである」
滞在していたスイスで、ジムは自身もHIV陽性の事実をフレディに告げています。
「『陽性だ』僕は答えた。
フレディの顔から血の気が引いた。
『馬鹿野郎』彼は言った。その言葉は彼を感染させた人間に向けられ、そしてその人間を感染させただれかに向けられていた」
⑦フレディの最期
スイスからロンドンに戻り、「ガーデン・ロッジでフレディの人生最後の三週間」が詳細に記されています。
「死が迫っていたころも彼はよく音楽を聴いていたが、その中に自分の曲はなかった。なにより繰り返して聴いていたのが、古いラブ・ソングを集めたナタリー・コールのアルバムだ。(中略)
『一緒にレコードを出せばよかったな』と彼は言った」
ジム、そしてフレディのパーソナル・アシスタントだった「フィービー」ことピーター・フリーストーン、ジョー・ファネリの3人が看護にあたっていました。
1991年11月24日19時12分前、フレディ永眠。
「フレディは朝6時にまた目を覚まして口を開いた。そのふたことが彼の最期の言葉になった……『おしっこ、おしっこ』」
「僕は片手でフレディの首をそっと支えてキスをすると、それから彼を抱きしめた。彼の目はまだ開いたままだった。そのとき彼の顔に浮かんだ表情を、僕はいまでもすごくはっきりと思い出すことができる。(中略)彼は輝いていた」
⑧ジム・ハットンとメアリー・オースティンの不仲
Freddie Mercury and Mary Austin had a special and deep love like no other…and these photos are just the proofhttps://t.co/G5zexmlcAj
— Vogue.fr (@VogueParis) October 11, 2020
© Dave Hogan pic.twitter.com/xosSWjlQlt
メアリー・オースティンは、フレディが若い頃に交際していたガールフレンドであり、その後も信頼する大の親友として生涯、交流を続けていました。フレディの個人的な会計事務のような仕事をまかされていたようです。
ジム・ハットンの回顧録によると、メアリーはジムのことを嫌っており、さまざまなエピソードが紹介されています。
例えば、ジムの庭師としての給料をフレディが上げたことにメアリーが露骨に不満を示したこと、ある日、フレディとメアリーが二人で話していたあと、なぜか急にフレディが怒って、ジムに「ガーデン・ロッジ」を出ていくよう言い出したといったエピソードなど……。
「ステージはメアリーやフィービーと三人で観客席から観るつもりだった。係が席に案内してくれたが、10分くらいするとほかの客がやってきて、そこは自分たちの席だと言った。メアリーはかっとなり、自分はフレディ・マーキュリーの恋人だと立場をかさにきようとした。それは賢いやり方ではなかった」
フレディが闘病中も、献身的に看病をしたのはジムとジョー、フィービーの3人だけだったと語っており、暗にではありますが、メアリーがたいして何もしなかったと示唆しています。
⑨フレディ死後のメアリーとジム
メアリー・オースティンはフレディの最期を看取る場にはいなかったようです。
「フレディが死んで30分くらいして、メアリーが最後のお別れを言いにやってきた。彼女がいたのは10分だった」
「葬儀ではメアリーと僕が一台目の車に乗るべきだろうという話になっていた。ところがガーデン・ロッジから葬儀に向かう準備をしているとき、突然メアリーにひどいことを言われた。一台目の車に僕には乗ってもらいたくない」
生前、フレディはジムら3人に好きなだけ「ガーデン・ロッジ」に住んでいいと言っていたようです。ところが、それが口約束に過ぎず遺言書には書かれていなかったという理由で、クイーンのマネージャーだったジム・ビーチとメアリーから、三か月の猶予後、出ていくよう申し渡されます。
家を含めた不動産のほとんどをメアリーに、そしてジム、ジョー、フィービーにはそれぞれ無税で50万ポンドを譲渡することが書かれていました。ジムは、多額の遺産分与に驚きましたが、最終的に手渡されたのはなにやら引かれて20万ポンドだったと告白しています。
「僕たちが家を出る日が決まった。(中略)そしてその日は同時に、メアリーの僕に対する態度が噓のように変わった日でもあった」
これまでジムらがフレディにあげたプレゼントを持って帰ってほしいと言い出すかと思うと、フレディの顔写真が入った写真立てを持って行っていいかと尋ねると、無視。
「フレディが病に倒れてからずっと誠実に尽くしてきた人間に対して、そんなひどいことが言えるものだろうか」
「メアリーはなにか気に入らないことがあると骨をくわえた犬のように強情になる人だった。そのときも癇癪を起し、まったく自分のことしか考えていなかった」
「フレディが死んだあと、彼がとても苦しんだとメアリーはよくマスコミに話していた。(中略)自分の衰えていく体についてフレディが泣き言を言ったことはない。ただの一度だってない。(中略)メアリーの言葉は、最後までフレディに尽くしてくれた医者たちに対する侮辱だと思う」
1993年の命日以来、メアリーからジムに連絡してきたことはなかったと語っています。
ジム・ハットンの晩年、遺産のその後
上記でも言及したとおり、ジム・ハットンは、2010年1月1日に肺がんによって60歳で死去していますが、その晩年は静かで穏やかなものだったと思われます。
フレディの死後、およそ18年。回顧録の出版当時は何度かテレビに出演したようですが、以後は、目立って表舞台に出ることもありませんでした。
受け取った遺産の一部で、ロンドンのスタムフォード・ブルックに3ベッドルームの地味な家を購入したほか、やはり生前のフレディの援助を受け、故郷であるアイルランドのカーロウにも自宅を建設しています。
2000年に製作されたドキュメンタリー番組『Freddie Mercury, the Untold Story』には、メアリーを含む多数の関係者の一人として出演。同作は、2006年に『フレディ・マーキュリー 人生と歌を愛した男』のタイトルで日本においても劇場公開されています。
ピーター・フリーストーンとともに、2006年にドイツのテレビ番組「Die Queen Show」に出演したのが、公にみせた最後の姿だと言われています。
フレディの死から数年後には、故郷のカーロウに戻っており、亡くなったのもその地です。カーロウのラットランド・テラスにあった家は、ジムの死後しばらく親族の所有となっていましたが、2016年に売りに出されたようです。
『フレディ・マーキュリーと私』から知りえる真相とは?
以上、ジム・ハットンの回顧録『フレディ・マーキュリーと私』に書かれていたことを9つの観点に分けてご紹介しました。
読了して強く印象に残るのは、本作がフレディとジムのピュアなラブ・ストーリーであること。
また、メアリー・オースティンの裏の顔には正直驚かされますが、これはあくまでもジム・ハットンからの一方的な視点であり、真実であるかどうかはわかりません。メアリー自身は今日に至るまで沈黙を守っています。
ちなみに、ピーター・フリーストーンが本書に前書きを寄せており、その中でジム・ハットンのことを以下のように形容しています。
「ジムは正直にしかなれない性格だから」
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