源頼朝の父母・妻・妾・子・兄弟と家系図【鎌倉殿の13人】

源頼朝の家族・親族ドラマ

小栗旬演じる鎌倉幕府第2代執権、北条義時を主人公に描く2022年放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。

そしておそらく、ドラマ前期において、もう一人の主役ともいえるのが、大泉洋演じる鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝です。

そこで本記事では、源頼朝の妻・妾・子ども・兄弟など家族や親族にしぼり、家系図とともにそれぞれの人物像と生涯をわかりやすくご紹介したいと思います。

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『鎌倉殿の13人』で源頼朝はどう描かれる?その生涯

・ドラマで描かれる以前

源頼朝は、久安3年(1147年)、源義朝と藤原季範の娘の三男として生まれました。

平治元年(1159年)の「平治の乱」で平清盛軍に敗れ、まだ14歳だった頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流されます。その後、20年以上にわたって、流人としてひそかに平氏打倒の機会を伺うことになります。

・ドラマで描かれる頼朝の生涯

流人であったこの間、乳母の比企尼の庇護を受け、比企尼の娘婿である安達盛長らが側近としてつくことになります。頼朝の監視役だった伊東祐親の三女、八重姫と通じて子をもうけますが、そのことで伊東祐親の怒りを買い、北条家に匿われます。そこで結ばれたのが北条政子です。

1180年から1185年まで続いた「治承・寿永の乱」で平氏に勝利し、鎌倉の地に幕府を樹立するに至りました。建久3年(1192年)、後白河法皇崩御で後鳥羽天皇が即位し、頼朝は征夷大将軍に任ぜられています。

後年は、長女の大姫を後鳥羽天皇の妃にしようと朝廷工作に奔走しますが失敗し、建久10年(1199年)、享年53歳で死去しました。死因は、落馬によるものなど諸説あってはっきりしていません。

ドラマで描かれるであろう政変や戦乱については、下記の記事でわかりやすく説明しています。

源頼朝の家族・親族(父母・妻・妾・子・兄弟ほか)と家系図

源頼朝を中心とする源氏一族の略式家系図と、それぞれの人物像を簡単に紹介します。ドラマに登場すると思われる人物にしぼっています。

源頼朝・家系図

北条義時側を中心にした家系図と、それぞれの人物像に関しては、下記の記事をご覧ください。

※以下、間柄は、頼朝からみた関係性です。

父:源義朝/登場せず

ドラマのスタート時点ですでに故人であり、登場することはありませんが、源頼朝の父は源義朝です。保元元年(1156年)の「保元の乱」において、平清盛と組んで勝利し、地位を築きますが、平治元年(1160年)の「平治の乱」で清盛と戦って敗れました。

頼朝が伊豆に流された一方、義朝は、平治2年(1160年)に逃げていた尾張国で謀殺されます。享年38歳でした。

正室の由良御前のほか、複数の側室がおり、頼朝や義経らを含むのべ10人以上の子をもうけています。

母:由良御前/登場せず

源義朝と同じく、すでに故人としてドラマには登場しませんが、義朝の正室であり頼朝の母にあたるのが由良御前です。

熱田神宮の大宮司である貴族・藤原季範の三女として、尾張国に生まれます。義朝と結婚し、頼朝、希義、坊門姫の3人をもうけました。

「平治の乱」が起こる9ヶ月前の保元4年3月1日(1159年3月22日)に死去。頼朝は、文治5年(1189年)、鎌倉の鶴岡八幡宮に母を供養する塔を建立しています。



最初の妻?:八重/新垣結衣

伊豆国伊東の豪族だった伊東祐親の三女であり、源頼朝が最初に通じ、子をもうけた女性だとされているのが八重姫です。よって「妻」という名称はふさわしくないかもしれません。

平家側だった父の怒りを買い、息子の千鶴丸を殺された上、北条氏の元に逃れた頼朝が政子と結ばれてしまいます。

八重姫のその後については、はっきりしていません。伊東に仕える江間次郎との再婚説や自害説など諸説あるばかりか、「阿波局」の名で頼朝の御所で働き、北条義時と結ばれて泰時を産んだという説を唱える学者もいます(ドラマこの説に従い展開するものと思われます

妻(正室):北条政子/小池栄子

北条時政の長女であり、母は不詳。伊豆国に流されていた源頼朝と結ばれ、正室となります。御台所として、大姫、頼家、三幡、実朝の4子をもうけました。

頼朝の死後、将軍職を継いだ頼家、実朝がそろって暗殺されたのちは、尼将軍となって義弟の北条義時とともに幕府の実権を掌握しました。

嘉禄元年(1225年)に享年69歳で死去。鎌倉の寿福寺にその墓があります。

ちなみに、「北条政子」の名は、後世、歴史用語として付与された名前にすぎず、本人が名乗った事実はありません。

妾:亀の前/江口のりこ

良橋太郎入道の娘と伝えられる亀の前は、伊豆国の流人だった頼朝に仕えていたときに気に入られ、寿永元年(1182年)の頃から、愛妾として寵愛を受けていたとされています。

頼家を出産したばかりだった北条政子は、継母の牧の方から、亀の前の存在を知らされて激怒。牧の方の兄である牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた伏見広綱邸を襲撃させました。

亀の前のその後についてはよくわかっていませんが、政子の嫉妬を恐れつつ、頼朝との関係は長く続いていたという説もあります。

妾:大進局/?

幕府の御家人、常陸入道念西の娘である大進局も、頼朝の妾の1人です。

大進局は、もともと御所に仕える女房でしたが、やがて頼朝の寵愛を受けるようになります。文治2年(1186年)に男子(のちの貞暁)を産むと、政子の知るところとなり、激しい嫉妬にさらされました。

政子の怒りから逃れるため、子は7歳で京都の仁和寺に送られて出家、大進局も上洛を余儀なくされたと言われています。

その後、大進局自身も出家し、摂津国で禅尼として老後を送ったと伝えられています。

子:千鶴丸/太田恵晴

頼朝が八重との間にもうけた第一子が、千鶴丸です。平清盛側につく祖父の伊東祐親の命により、幼くして川で殺害されたと言われていますが、実は生存説もあります。

伊東市鎌田にある伊東大川の「稚児が淵」は、千鶴丸が沈められた場所として伝わっているほか、熱海市上多賀には、千鶴丸供養のため建てられた地蔵「千鶴地蔵」があります。

子(長女):大姫(一幡)/南沙良

治承2年(1178年)、頼朝が政子との間にもうけた最初の子が大姫(別名、一幡)です。6歳のとき、頼朝と源義仲の和議を促す目的のため、義仲の嫡男である義高と婚姻を結びました。

ところが、頼朝と義仲の関係は破局。義仲が戦死すると、大姫は義高を逃すために動きましたが、あえなく処刑されてしまいます。

大姫は、義高の死に衝撃を受け、その後十数年が過ぎても床に伏す日が続き、縁談を断り続けたと言われています。頼朝は、大姫を後鳥羽天皇へ入内させようと画策しましたが、それも実現せぬまま、建久8年(1197年)、病により享年20歳で死去しました。

子(長男):源頼家(万寿)/金子大地

寿永元年(1182年)に生まれた、頼朝と政子の嫡男であり、幼名は万寿。頼朝の死後、18歳で2代将軍につきましたが、就任の3か月後には、頼家の独断を防ぐ名目で「十三人の合議制」がしかれています。

権力闘争の結果、梶原景時や比企能員といった後ろ盾を失ったばかりか、自身も、叔父にあたる阿野全成を謀反の罪で殺害し、その妻である阿波局(政子の妹、ドラマでは実衣の名)の処遇をめぐって、母の政子とも対立。伊豆の修禅寺に流されたのち、元久元年(1204年)、北条の刺客によって享年23歳で暗殺されました。

頼家は、複数の妾との間に、一幡、公暁、栄実、禅暁、竹御所という四男一女をもうけています。

子(次男):貞暁/?

頼朝が妾の大進局との間にもうけた男子が貞暁です。文治2年(1186年)に生まれ、母が異なる三幡とは同い年になります。

既述のとおり、政子の激しい嫉妬から逃れるため、実朝誕生の3ヶ月前、建久3年(1192年)に7歳で京都の仁和寺に出家しました。鎌倉出発前夜、頼朝からひそかに太刀を授けられたと言われています。

貞暁とは法名であり、寛喜3年(1231年)、高野山にて享年46歳で死去しました。ちなみに、甥にあたる公暁は一時、貞暁の弟子にありました。

子(次女):三幡(乙姫)/?

文治2年(1186年)、頼朝と政子の間に、次女としてうまれたのが三幡(別名は乙姫)です。

姉の大姫が、後鳥羽天皇への入内が実現せぬまま死去したため、三幡にその役目が回ってきます。しかし、それもかなわぬうちに頼朝は死去。三幡も、父の死の5ヶ月半後、病により急死しました。

享年14歳でした。

子(三男):源実朝(千幡)/柿澤勇人

建久3年(1192年)、頼朝と政子の次男として生まれたのが実朝です。幼名は千幡であり、政子の妹である阿波局(ドラマでは実衣)が、乳母をつとめました。

兄の頼家が追放され、12歳で第3代将軍に就任します。実朝暗殺を企てた祖父の北条時政が失脚したことで、母である北条政子が尼将軍として、叔父である北条泰時が執権として実質的な権力を握る体制が確立していきました。

右大臣に任命された初の武士となりましたが、建保5年(1217年)、鶴岡八幡宮を参拝中、頼家の遺児であり、自身の甥にあたる公暁に暗殺されました。享年28歳でした。



孫:一幡/?

頼家がもうけた四男一女のうち、比企能員の娘である若狭局との間に生まれた長男が一幡です。

頼家が病に伏し、一幡に家督を譲ろうとしたため、外祖父の比企能員が力を持つことを恐れた北条時政が、比企一族を滅亡させ、一幡も享年6歳で暗殺されました。

孫:公暁/寛一郎

頼家がもうけた次男(三男の説もあり)であり、幼名は善哉。また、こちらも諸説ありますが、一幡とは異母であるとも言われています。

叔父にあたる、3代将軍の源実朝を、父の敵討ちとして鶴岡八幡宮の境内で暗殺し、自身も討ち死にしました。享年20歳でした。

異母弟:源範頼/迫田孝也

源義朝の六男で、頼朝の異母弟にあたります。

「治承・寿永の乱」において、異母弟の義経と共に、義仲および平氏滅亡に導いた立役者です。しかし、後に頼朝によって謀反の疑いをかけられ、伊豆国修善寺に幽閉されました。

その後は修善寺で謀殺されたとも武蔵国に逃れたとも諸説あり、よくわかっていません。

異母弟:阿野全成/新納慎也

源義朝の七男で、頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたります。

平治元年(1159年)、「平治の乱」で父の義朝が討ち死にしたため、7歳にして醍醐寺に出家させられました。

後に、頼朝と再会した全成は、武蔵国長尾寺を与えられ、政子の妹である阿波局(ドラマでは実衣)を妻とします。しかし、2代将軍となった頼家と対立し、常陸国に配流されたのち暗殺されました。享年51歳でした。

異母弟:源義円/成河

源義朝の八男で、頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたります。

園城寺で出家して「円成」からやがて「義円」を名乗り、後白河天皇の皇子である円恵法親王に仕えていました。

治承5年(1181年)、源氏軍として参加した「墨俣川の戦い」で敗れ、享年27歳で討死しています。

異母弟:源義経/菅田将暉

源義朝の九男で、頼朝の異母弟。幼名を牛若丸といい、「平治の乱」で父が敗死したため、鞍馬寺に預けられ、さらにその後、奥州平泉の藤原秀衡庇護され暮らしました。

「治承・寿永の乱」では、一ノ谷や壇ノ浦などの合戦で平氏を打倒した立役者となります。しかし、その後、頼朝の許可を得ずに官位を受けたりして次第に対立。

義経打倒の動きに対し、奥州の藤原に逃れましたが、秀衡亡きあと家督を継いだ藤原泰衡に裏切られ、結局、平泉の衣川館で自害に追い込まれました。文治5年(1189年)、享年31歳でした。

自害の際、妻の郷御前と幼い娘も手にかけています。頼朝に、義経との子を殺された妾、静御前の悲劇も有名です。

叔父:源行家/杉本哲太

源行家は、源為義の十男であり、頼朝の父である義朝の異母弟、つまり頼朝からみて父方の叔父にあたります。

治承4年(1180年)の「以仁王の挙兵」では、平氏打倒に失敗し、その後は甥にあたる源義仲の幕下に入りました。

義仲が範頼・義経軍に討たれると、次第に頼朝と対立。同じく頼朝と対立を深めていた義経と組んで戦いますが、文治2年(1186年)、山城国で捕らえられ斬首されました。

従弟:源(木曾)義仲/青木崇高

源義仲(別名、木曾義仲)は、頼朝の祖父である為義の次男・義賢の次男であり、頼朝からみて従弟にあたります。

「以仁王の挙兵」の後、「倶利伽羅峠の戦い」で平氏相手に勝利をおさめ、京都に入ります。しかし、京都の治安回復はなかなか進まず、また西国における平氏との戦いには苦戦。後白河法皇との関係も悪化し、頼朝と対立します。

寿永3年(1184年)、「粟津の戦い」で源範頼・義経軍に討たれました。享年31歳。女武者として知られる巴御前は妾です。

『鎌倉殿の13人』で、源頼朝はどこまで登場?

主人公が北条義時であることから、ドラマ自体は、義時が死去する元仁元年(1224年)まで描かれるものと推測されます。

おそらく源頼朝は、ドラマ前期の中心人物であり、その死によってドラマは折り返し、後期が展開するのではないでしょうか?

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