北条義時の父母・妻・兄弟・子・家系図【鎌倉殿の13人】

北条泰時の家族ドラマ

三谷幸喜が脚本を手掛け、2022年1月から12月まで放送される第61作目のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。

小栗旬演じる北条義時を主人公に、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後に発足した集団指導体制「十三人の合議制」を題材に選んだ歴史ドラマです。

本記事では、北条義時とその家族・親族について、それぞれの人物像およびキャストを略式家系図とともにご紹介します。

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』とは?

平安時代末期の源氏と平氏の戦い、その結果、鎌倉幕府が誕生し、やがて北条氏を軸に有力御家人13人による合議制という集団指導体制が築かれていく、熾烈な権力争いと愛憎うずまく人間関係を描きます。

この合議制が崩れたのちは、北条時政、時政の長女で頼朝の妻・政子、時政の次男・義時によって北条氏による執権政治が確立していきます。

2004年の『新選組!』、2016年の『真田丸』に続き、3作目の大河ドラマとなる三谷幸喜が脚本を手掛ける一方、小栗旬が、大河ドラマ8作目の出演にして初の主演に抜擢されました。

「十三人の合議制」と構成する13人の人物・関係性については、下記の記事でくわしく紹介しています。

主人公・北条義時の生涯

・生い立ちと鎌倉幕府以前

北条義時は、1163年(長寛元年)の生まれで、別名は江間小四郎。北条時政の次男であり、母は伊豆の豪族・伊東祐親の娘だと言われています。異母姉の北条政子が、当時まだ流人だった源頼朝の妻となったことから、父とともに源氏側につくこととなりました。

「石橋山の戦い」では源氏軍が破れたばかりか、兄の宗時が戦死します。しかしその後「鉢田の戦い」と「富士川の戦い」では勝利に貢献。頼朝の寝所を警護する家子11人の1人に選ばれるなど、信頼を得ていきました。

その後も「葦屋浦の戦い」「奥州合戦」などで名を成す一方、21歳のときには、阿波局との間に庶子である長男の泰時をもうけました。1192年(建久3年)には、比企朝宗の娘だった姫の前を正室に迎え、朝時をもうけています。

・鎌倉幕府以後

頼朝の死後、「十三人の合議制」に加わり、「梶原景時の変」や「比企能員の変」など権力闘争を繰り広げながら、父・姉とともに権力を拡大します。しかし、「畠山重忠の乱」や「牧氏事件」などをきっかけに父とは政治的に対立。父を追放して政所別当となり、政子が尼将軍として、義時が補佐して実権を握る執権政治を確立させました。

後鳥羽上皇との対立に端を発した「承久の乱」を政子とともに制圧したのちすぐ、1224年(元仁元年)に62歳で急死しました。死因は、衝心性脚気説や暗殺説など諸説あり、はっきりしていません。

・北条義時の墓

義時の墓は、泰時が建立したと言われる、現在の静岡県伊豆の国市にある北條寺にあります。

実際に撮影のためのオープンセットが組まれた伊豆の国市など、ロケ地情報については、下記の記事をご覧ください。

北条義時の家系図・家族(父母・兄弟・妻・子ほか)

北条泰時の家系図

以下、義時から見た関係性で紹介します。

父:北条時政/坂東彌十郎

北条氏は、伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)を拠点とする一地方豪族に過ぎませんでした。桓武平氏高望流の平直方の子孫とも言われていますが、諸説あります。

当初は際立った勢力もなく、時政の父など親兄弟のことも実はあまりよくわかっていません。政子をもうけた妻の名前も不明ですが、義時の母は伊東祐親の娘、その後迎えたのが牧の方であることは知られています。

最初、平氏側だった時政は、「平治の乱」で敗れて伊豆国に流された源頼朝の監視役となります。やがて頼朝と娘の政子が結ばれたことをきっかけに、平氏打倒の源氏側につきました。

平氏との戦いを経て、鎌倉幕府で次第に頭角を現します。しかし、既述のとおり、やがて息子の義時と対立。その背後には、頼朝・牧の方 VS 政子・義時の確執があったとも言われています。孫である3代将軍の実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新しい将軍に擁立しようとして失敗(牧氏事件)。隠居に追いやられて出家したすえ、1215年(建保3年)に78歳で病死しました。

しかし、時政が、弱小豪族だった北条氏を一代で日本を制圧する権力の座に押し上げた立役者であることに変わりはありません。

母:伊東祐親の娘(氏名不詳)/登場せず

義時の母については、伊東祐親の娘であると伝えられること以外、名前はおろか詳しいことは何もわかっていません。

一般には、宗時、義時、阿波局の二男一女をもうけたと言われています。(義時にはもう一人、時房という弟がいますが、母は異なるようです。)

頼朝の最初の妻となった八重姫は、伊東祐親の三女であり、義時の母の妹、つまり叔母にあたります。

継母:牧の方(りく)/宮沢りえ

牧の方は、駿河の豪族である牧宗親の娘(妹との説もあり)であり、京都から迎えられて北条時政の継室となった女性です。つまり、泰時にとっては義母にあたります。頼朝との間に、北条政範、平賀朝雅の妻となる娘ら複数の子をもうけました。

1182年(寿永2年)には、義理の娘にあたる政子に、源頼朝と妾・亀の前の浮気を告げ口して騒動を起こしたり、1205年(元久2年)には、時政をたぶらかし、将軍実朝の暗殺と、娘婿の平賀朝雅の将軍擁立を企てたりして失敗するなど(牧氏事件)、一般的には悪女として知られています。

時政の死後、牧の方は娘を頼って京都で余生を過ごしました。ドラマでは「りく」という名前になっていますが、実は本名はわかっていません。

異母姉:北条政子/小池栄子

北条時政の長女で、母は未詳。義時の異母姉にあたります。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人に落ちぶれていた源頼朝の妻となり、鎌倉幕府成立とともに御台所として、大姫、頼家、三幡、実朝をもうけました。

頼朝の死後、将軍職を継いだ頼家、実朝がそろって暗殺されたのちは、尼将軍となって義弟の義時とともに実権を握ります。1221年(承久3年)に起こった「承久の乱」に際し、朝廷相手に怯む御家人たちを前に行った大演説は有名です。

義時の死後も、幕府で力を持ち続け、1225年(嘉禄元年)、69歳で死去しました。墓は、鎌倉の寿福寺にあります。



兄:北条宗時(三郎)/片岡愛之助

北条宗時は、義時の実兄で北条家の嫡男でした。別名は三郎。義時とともに挙兵し、功を成しましたが、1180年(治承4年)、「石橋山の戦い」において大庭景親率いる平氏軍に敗れ、宗時は討ち死にしました。

静岡県田方郡の函南駅近くの丘陵に、墓があります。

妹:阿波局(実衣)/宮澤エマ

阿波局は、義時の妹で、頼朝の異母弟である阿野全成の妻となったのち、甥にあたる源実朝の乳母も務めました。

そうした縁で、終始北条と実朝のために暗躍していたと伝えられ、1227年(嘉禄3年)に亡くなった際には、甥にあたる北条泰時が喪に服しました。

ドラマでは「実衣」という名前になっていますが、本名はわかっていません。

弟:北条時房/瀬戸康史

北条時房は、元の名を時連といい、義時の異母弟です。生母は不明です。

兄の義時の右腕として働き、承久の乱では、甥にあたる泰時と共に上洛し、初代六波羅探題南方となりました。義時の死後は、初代連署に就任し、第三代執権となった泰時を補佐しています。

1240年(延応2年)、享年66歳で死去しました。

北条時政には、実はここで紹介した子どもたちのほか、生母不明の子が多数いますが、そんな中でも時房は際立った活躍をした人物として、ドラマに登場するものと思われます。

妻(正室):姫の前(比奈)/堀田真由

姫の前は、比企朝宗(比企能員の兄)の娘で、もとは頼朝の女官でしたが、1192年(建久3年)に北条義時の正室に迎えられました。朝時と重時をもうけています。ドラマでは「比奈」の名前で登場しますが、本名は不明です。

「比企能員の変」によって、夫に実家を滅ぼされたことから、離縁に至ったのではないかと伝えられています。その後、源具親と再婚して輔通をもうけていますが、まもなく京都で死去しました。

妻(側室):阿波局/新垣結衣

姫の前より先だって、義時と結ばれ、長男の泰時をもうけたと言われる女性が阿波局です。泰時の妹と同名ですが別人です。

本名や生涯など、詳しいことはわかっていませんが、実は、後述する八重姫と同一人物ではないかという説を唱える学者もいます。つまり、八重姫が、頼朝の御所で働いたのちに義時の妾となり、泰時をもうけたとの説です。

ドラマは、この説に従って描かれています。

妻(継室):伊賀の方(のえ)/菊地凛子

義時が、姫の前と離縁したのち、継室に迎えたのが伊賀朝光の娘である伊賀の方です。ドラマでは「のえ」という架空の名前で登場します。後に第7代執権となる政村をもうけました。

夫である義時の死後、幕府内で権力を握ろうと暗躍していたとされ、政子によって流罪に……(伊賀氏の変)。幽閉地で亡くなったとされています。

長男:北条泰時/坂口健太郎

1183年(寿永2年)、義時と阿波局の間に生まれた長男が北条泰時です。正室の姫の前がもうけた北条家嫡男・朝時が失脚したため、泰時が得宗家を継ぎました。

父とともに「和田合戦」や「承久の乱」を戦い、戦功を挙げています。義時の死後、政子の後押しもあって、42歳で第3代執権となりました。

「御成敗式目」を制定した人物としても有名です。鎌倉幕府北条家、中興の祖と称えられ、1242年(仁治3年)に60歳で死去しました。

祖父:伊東祐親/浅野和之

義時の母方の祖父にあたるのが伊東祐親です。伊豆国で北条氏を凌ぐ力を持つ豪族として平氏側につき、伊豆に流された源頼朝を監視する役目を担っていました。

しかし、その間、三女の八重が頼朝と結ばれて妻となり、千鶴丸をもうけます。激怒した祐親は3歳の千鶴丸を殺し、頼朝の暗殺をも企てますが失敗。その後、祐親は出家し、入道を名乗りました。

平氏への忠誠は変わらず、「石橋山の戦い」では、大庭景親らと協力して源頼朝、北条氏を制圧しますが、その後「富士川の戦い」で敗れ、最後は自害しました。

叔母:八重/新垣結衣

伊東祐親の三女で、源頼朝の最初の妻(?)となったのが八重姫です。平家に忠誠を誓う父の怒りを買い、息子の千鶴丸を殺され、頼朝は、北条氏の元に逃れます。

しかしそこで、頼朝は政子と結ばれてしまいます。その後の、八重姫の行く末については川に入って自害したとも、再婚したとも諸説あってよくわかっていない上、こうした経緯そのものが創作ではないかとの説もあります。

八重は、義時の叔母にあたりますが、ドラマでは義時の初恋の相手でもあるという設定がなされています。前述したとおり、その後、義時の妻となったとの説に従い、ドラマが展開しています。



義兄:源頼朝/大泉洋

源頼朝は、1147年(久安3年)、源義朝と熱田神宮の大宮司である貴族・藤原季範の娘との間に、三男として生まれました。

1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、伊豆に流刑となります。流人であったこの間、既述したとおり、八重姫、北条政子と相次いで結ばれ、複数の子をもうけました。

1180年から1185年まで続いた「治承・寿永の乱」で平氏に勝利し、鎌倉に幕府を樹立するに至ります。1192年(建久3年)、後白河法皇崩御で後鳥羽天皇が即位し、頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。

晩年は、長女の大姫を後鳥羽天皇の妃にしようと朝廷工作に奔走しますが叶わず、1199年(建久10年)に、享年53で死去しました。

源頼朝を中心にした家系図やそれぞれの人物像については、別の記事にまとめてあります。

甥:源頼家/金子大地

頼朝と政子の嫡男であり、18歳で鎌倉幕府2代将軍についたのが源頼家です。頼朝の指名により、梶原景時と比企能員が後見人になりますが、若い頼家の独断を防ぐため、就任3か月後には「十三人の合議制」がしかれました。

しかし、「梶原景時の変」と「比企能員の変」などによって後ろ盾を失い、自身の病もあって将軍職を奪われます。伊豆の修禅寺に幽閉されると、その翌年の1204年(元久元年)、北条の刺客によって暗殺されました。享年23の若さでした。

姪:大姫/南沙良

頼朝と政子がもうけた第一子が大姫です。6歳のとき、関係が悪化していた父・頼朝と源義仲の対立を防ぐため、義仲の嫡男・義高と婚約。しかし結局、義仲も義高も処刑されてしまいます。

大姫は、義高を逃がすために奔走しましたが、その死に衝撃を受けて病に伏せ、父が望む後鳥羽天皇への入内の話も進まないうちに、20歳で死去しました。

ちなみに頼朝と政子の間には、次女の三幡(通称、乙姫)がいますが、こちらも頼朝が死んだ数か月後、病により14歳で死去しています。

甥:源実朝/柿澤勇人

頼朝と政子の次男であり、12歳で第3代将軍に就いたのが源実朝(幼名は千幡)です。

上述した「牧氏事件」により実朝暗殺を企てた祖父の時政が失脚し、その代わりに母である政子が尼将軍として、叔父である泰時が執権として権力を握るに至りました。

武士としては初となる右大臣に任命された翌年の1217年(建保5年)、鶴岡八幡宮で頼家の遺児である公暁に暗殺されました。享年28歳。

実朝の死により、源氏の将軍はわずか3代で終わることとなりました。

『鎌倉殿の13人』はどこからどこまで描くのか?

『鎌倉殿の13人』というタイトルではありますが、頼朝の異母弟である源義経を菅田将暉が演じるほか、平氏と源氏の武将が多数名を連ねる第一弾キャスト情報から推測すると、伊豆の流人となった頼朝が北条氏とつながり、やがて勃発する「治承・寿永の乱」がたっぷり描かれるのではないかと思われます。

終盤の山は、「承久の乱」でしょうか? 

まだ発表されていないキャストなどもありますので、ドラマの進行に合わせ、本記事も更新していきたいと思います。

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