アカデミー賞授賞式で起こった事件・名/珍エピソード12選

アカデミー賞授賞式 映画

「オスカー」の名で知られる、世界の映画祭の中でも最も長い歴史と権威を誇るアメリカのアカデミー賞。

国際映画祭というと、カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンが世界三大映画祭ですが、そのどこよりも古く、また華やかさから言っても、映画関係者・映画ファンの注目度や影響度は最も高い賞だと言えるでしょう。

本記事では、あと数年で記念すべき第100回を迎える、アカデミー賞受賞式の最中に起こった事件や珍エピソード、名シーンを独断と偏見で12選び、ご紹介したいと思います。

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アカデミー賞(オスカー)について

アカデミー賞は、アメリカ映画の健全な発展を目的としており、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会員によって選出されます。

前年1年間にアメリカ国内で公開された作品が対象であり、作品や俳優のみならず、スタッフなど裏方にもさまざまに細分化された賞が授与されるのが特徴です。かつて外国映画は、外国映画賞(現在の名称は国際長編映画賞)やドキュメンタリー賞など一部カテゴリーに限られていましたが、近年は主要部門においてノミネート・受賞を果たすことも珍しいものではなくなりました。

授賞式は、2002年開催の第74回より、原則として毎年2月から3月の間にロサンゼルス市内のドルビー・シアターで行われています。オスカー像が授与されることから、アカデミー賞そのものを「オスカー」と呼ぶこともありますが、その名の由来には諸説あります。

近年の傾向

国際映画祭と異なるのは、映画芸術科学アカデミー会員が、業界関係者から構成されているため、映画会社のパワーバランスなど政治的な思惑、アメリカ国内の社会状況や世相などが深く影響していることです。

特に近年は、黒人や女性、LGBTQなどマイノリティの権利向上の流れから、過去の賞における差別・軽視が問題視されるようになり、今後作品賞にノミネートされるためには、あらたに設置された多様性項目(インクルージョン基準)を満たす必要があるなど、厳しい条件がもうけられました。

映画業界には、左派リベラル思想の人が多いという背景もありますが、そうした条件を、映画の自由な表現、芸術性あるいは娯楽を損なうと批判する声も少なくありません。こうした状況を反映してか、世界中のテレビで生放送される授賞式の視聴率が低下傾向にあるなど、新たな波が押し寄せていることは間違いありません。



アカデミー賞授賞式の最中に起こった事件・珍エピソード・名シーン12選

情報は、2023年現在のものです。また、順不同です。

1973年3月27日に発表された、第45回の主演男優賞に輝いたのは、『波止場』以来2度目となる『ゴッドファーザー』マーロン・ブランド。

ところが、アメリカン・インディアンの権利と運動を支持していたブランドは、映画業界における不当な扱い、そして差別によっておこったウンデット・ニー占拠事件を理由に、受賞を拒否します。

代わりに、アメリカン・インディアンの衣装を着た女性を代理人として送り込み、政治的スピーチをさせようとしましたが、ブーイングのため檀上で読むことはできませんでした。

女性は、サチーン・リトルフェザーという女優兼活動家であり、当時、父親がネイティヴ・アメリカンの当事者であると公表していましたが、2022年の死後、それがまったくの嘘だったことが判明しています。

1974年4月2日に開催された第46回授賞式では、俳優のデヴィッド・ニーヴンがプレゼンターとして舞台に立ってエリザベス・テーラーを紹介していたとき、その真後ろを全裸の男性がピースサインをして走り去るというハプニングが発生。そのまま生中継されてしまったのです。

落ち着いたニーヴンの臨機応変な対応とユーモアあふれるスピーチが称賛されましたが、授賞式のプロデューサーがあらかじめ仕組んでいたもので、ニーヴンも事前に知らされていたとの説もあります。

全裸の男性は、写真ビジネスを営んでいたロバート・オペルで、一躍有名人となりましたが、5年後の1979年、強盗に殺害され39歳で死去しました。

ちなみに、2015年2月22日開催の第87回授賞式では、司会のニール・パトリック・ハリスがなんとブリーフ一枚で登場し、大きな話題をよびました。

1982年3月29日に行われた第54回授賞式において、主演男優賞を受賞したのは『黄昏』ヘンリー・フォンダ。長いキャリアを誇る名優でありながら、これまで名誉賞を得たのみで、主演男優賞は初の受賞でした。

しかし、授賞式当日、フォンダはすでに病床の身であり、娘のジェーン・フォンダが代理で出席してオスカー像を受け取ります。2人は、長らく確執を抱え、受賞作となった『黄昏』も和解のきっかけとしてジェーンが企画した作品でした。

受賞スピーチでジェーンはテレビで見ている父に向かって呼びかけ、その足で父のもとにかけつけ、像を手渡しました。ヘンリーは、そのまま復帰できず、5か月もたたない1982年8月12日に77歳で死去。『黄昏』は遺作となりました。

1978年4月3日に行われた、第50回授賞式において、『ジュリア』で助演女優賞に輝いたヴァネッサ・レッドグレイヴによる政治的な受賞スピーチは、一時会場を騒然とさせ、物議をかもしました。

かねてから反体制、反戦の政治革命運動に熱心に取り組んでいたレッドグレイヴは、1977年に私財を投じ、パレスチナ解放機構(PLO)をテーマにしたTVドキュメンタリー『The Palestinian』を製作。その結果、ユダヤ防衛同盟のメンバーが、レッドグレイヴの人形を焼いたりして脅迫するなど過激な抗議活動を行っていました。そうした状況を受け、受賞したレッドグレイヴは、彼らの過激行為を批判するスピーチを行ったのです。

「シオニストのごろつき」という激しい言葉を使ったことで、反ユダヤ主義とも誤解されて、会場ではブーイングもおきましたが、実際には、ファシズムと闘うユダヤ人を称賛し、過激な行動に走る一部シオニストを批判する内容でした。

他にも政治的発言では、2003年3月23日に発表された第75回受賞式において、『ボーリング・フォー・コロンバイン』でドキュメンタリー作品賞を受賞したマイケル・ムーアが、スピーチの中で「ジョージ・ブッシュ、恥を知れ!」と発言し、さすがに民主党支持者が多くを占める会場の関係者の間でもブーイングが巻き起こりました。

2014年3月2日に行われた第86回授賞式において、司会を担当したエレン・デジェネレスが奇想天外な行動に出て、大きな話題をよびました。

まず、宅配ピザをオーダーし、会場のドルビー・シアターまで配達を依頼。実際、届いたピザを会場の俳優たちと分け合って食べるという行為を行いました。

さらに、リツイートの記録を更新しようと、会場のスターらに呼びかけ、実際にその場で撮影した写真を自身のSNSにアップ。その結果、Twitterのアクセス障害を起こしつつも、190万回以上のRTとなり、最高記録を更新しました。

受賞シーンばかりか、舞台上でスターたちが繰り広げるトークや寸劇も、授賞式の楽しみの一つです。個人的に特にお気に入りなのが、1989年3月29日に行われた第61回受賞式。

短編アニメ映画賞と短編実写映画賞のプレゼンターとして、舞台の両すそからそれぞれ現れたのは、キャリー・フィッシャーとコメディ俳優のマーティン・ショート。まったく同じ女性用のドレスを着ており、会場を爆笑に包みました。

そこで繰り広げられる2人の会話は抱腹絶倒もの。授賞式史上、記憶に残る名爆笑シーンの一つでしょう。



今でこそ、大胆なドレスやシースルーはあまり珍しいものはなくなりましたが、まだ80年代、1988年4月11日に開催された第60回授賞式に登場したシェールのスケスケ衣装は、会場の度肝を抜きました。

シェール『月の輝く夜に』で見事主演女優賞を受賞。今も語り継がれるオスカー史上最も有名なドレスの一つとなりました。

もう1点、今も語り継がれる有名ドレスといえば、2001年3月25日開催の第73回授賞式で、ビョークが着用したマラヤン・ペジョスキーによるスワン・ドレス。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で歌曲賞にノミネートされていました。

2013年2月24日開催の第85回受賞式で、見事主演女優賞に輝いたのは、『世界にひとつのプレイブック』ジェニファー・ローレンスであり、史上2番目の若さでした。

ところが、受賞が発表され、興奮の中で舞台にあがろうとしたローレンスは、階段でドレスを踏んでしまって転倒。うずくまったところを、駈け寄ったプレゼンターのジャン・デュジャルダンに助けられました。

その後、頭の中が真っ白になり、きちんとスピーチもできなくなったのだとか……。周囲からみると微笑ましいシーンですが、当人にとってはしばらくあまり触れたくない体験だったようです。CNNキャスターのアンダーソン・クーパーが、「あれはわざとだ」と発言したのをきいて、真剣に腹をたてていたそうです。

2017年2月26日に開催された第89回授賞式において、クライマックスとなる作品賞発表のプレゼンターとして檀上に立ったのは、名作『俺たちに明日はない』50周年を記念してウォーレン・ベイティフェイ・ダナウェイの豪華なコンビでした。

2人は封筒を開け、ダナウェイが『ラ・ラ・ランド』だと発表。関係者がステージに上がって受賞スピーチを始めたところで、スタッフに中断され、それが間違いであり、受賞作品は『ムーンライト』だったことが説明されたのでした。

投票を管理しているプライスウォーターハウスクーパースが、ベイティとダナウェイに間違った封筒(『ラ・ラ・ランド』で主演女優賞に輝いたエマ・ストーンのもの)を手渡していたのです。プライスウォーターハウスクーパースは、関係者に対し、公式に謝罪声明を発表しました。

2003年3月23日に発表された第75回授賞式において、主演男優賞に選ばれたのは、『戦場のピアニスト』エイドリアン・ブロディ。ところが、ブロディは興奮と歓喜のあまり、檀上にあがるやプレゼンターを務めていたハル・ベリーに承諾なくいきなりディープキスをしてしまったのです。

ハル・ベリーが驚きつつも、大人の対応をしたから問題にはならなかったものの、一部には不快感を覚えた人もいたようです。実際、もし今日の状況であれば、明確なセクシャルハラスメントにあたってしまう行為になるかもしれません。

ちなみに、当時29歳だったエイドリアン・ブロディの受賞は、今日にいたるまで主演男優賞の最年少記録です。

まだ記憶に新しい2022年3月27日に開催された第94回授賞式において、長編ドキュメンタリー映画賞のプレゼンターを務めていたクリス・ロックが、『ドリームプラン』で主演男優賞を受賞したウィル・スミスに檀上で激しく平手打ちされるという事件が発生しました。

これは、コメディアンのクリス・ロックが、スミスの妻で女優のジェイダ・ピンケット・スミスの脱毛症を茶化す発言をしたことに激怒しての行動でした。会場は騒然とし、全米では生中継が一時中断される事態に至りました。

その行動に対しては賛否両論ありましたが、ウィル・スミスの暴力を批判し、クリス・ロックの大人の対応を評価する声の方が大勢を占めています。映画芸術科学アカデミーは、授賞式などへの出席を今後10年間禁止する処分を下し、スミスも反省と謝罪の声明を発表してそれを受け入れました。

黒人の俳優としてオスカー初の受賞者となったのは、『風と共に去りぬ』ハティ・マクダニエルの助演女優賞。1940年2月29日、ロサンゼルスのアンバサダーホテルで行われた授賞式で、『風と共に去りぬ』は最多13ノミネートで8つ受賞。マクダニエルは、同じく助演女優賞にノミネートされたオリヴィア・デ・ハヴィランドを差し置いての受賞でした。

しかし、当時はまだ公然と人種差別が行われており、マクダニエルは、『風と共に去りぬ』チームのテーブルにつかせてもらえず、離れた壁際のテーブルに着席していました。

その他いくつかの初受賞などの記録をご紹介します。

東洋人として初のオスカー受賞者となったのは、ナンシー梅木(ミヨシ・ウメキ)。第30回アカデミー賞において、『サヨナラ』により助演女優賞に輝きました。

主演・助演の演技賞受賞者の中で、最年少は、第46回の『ペーパームーン』テータム・オニールで10歳。そして、最多受賞者は主演女優賞4度のキャサリン・ヘプバーンです。



アカデミー賞の今後

以上、個人的な独断ではありますが、12の事件やエピソードを選び、ご紹介しました。

既述のとおり、近年、アメリカ映画界そのものがポリコレのあおりをうけて変質しつつあり、それは作品ばかりか授賞式自体にも大きな影響を与えています。

世界での視聴率も低下しつつあり、今後、アカデミー賞がどうなっていくのか、注目していきたいと思います。

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